東京五輪&パラリンピック注目アスリート「覚醒の時」第19回 クライミング・楢崎智亜初優勝した世界選手権ボルダリング(2016年) アスリートの「覚醒の時」——。 それはアスリート本人でも明確には認識できないものかもしれない。 ただ、その選手…

東京五輪&パラリンピック
注目アスリート「覚醒の時」
第19回 クライミング・楢崎智亜
初優勝した世界選手権ボルダリング(2016年)

 アスリートの「覚醒の時」——。

 それはアスリート本人でも明確には認識できないものかもしれない。

 ただ、その選手に注目し、取材してきた者だからこそ「この時、持っている才能が大きく花開いた」と言える試合や場面に遭遇することがある。

 東京五輪での活躍が期待されるアスリートたちにとって、そのタイミングは果たしていつだったのか……。筆者が思う「その時」を紹介していく——。



日本人男子初の快挙を成し遂げた楢崎智亜

 昨夏のスポーツクライミング世界選手権での楢崎智亜には「どこまで強くなろうというのか」と唸らずにはいられなかった。とりわけ、男子ボルダリング準決勝の第1課題と第2課題で見せた楢?の成長には、ただ驚かされるばかりだった。

 楢崎が覚醒した瞬間はいつか——。そう訊ねられたほとんどの人は、2016年シーズンのW杯ボルダリング重慶大会か、世界選手権ボルダリングを挙げるのではないだろうか。

 前者は楢崎がW杯初優勝を果たし、このシーズンにW杯年間王者まで駆け上がった第一歩目。後者は優勝して日本人男子初の快挙を成し遂げた瞬間だ。

 楢崎がW杯ボルダリングにデビューしたのは、高校3年だった2014年。5大会に出場し、中国・海陽大会では決勝進出して5位になったものの、3大会は予選落ちを味わった。

 2015年はW杯ボルダリングに5大会に出場し、2度の予選敗退で最高位は10位。世界トップレベルからは、まだほど遠い存在だった。

 その選手が2016年、ふたつの大きなタイトルを獲得して、一気に世界のトップへと駆け上がった。

 結果を見れば覚醒と言える。ただ、技術的な面にフォーカスすれば、楢崎が急成長したというより、ボルダリングの課題傾向が彼の得意とするものに近寄ったということが大きいように感じてならない。

 2016年シーズンは、IFSC(国際スポーツクライミング連盟)がオリンピックでの実施種目入りを目指していたこともあってか、前年までと課題の傾向が様変わりした。

 それまで主流だった岩場でのクライミングを彷彿とさせるスタティック(静的)なムーブを求める課題は減り、対してランジ(ジャンプ)やコーディネーション(※)といった見た目で派手でダイナミックな動きを求める課題が多く出された。

※コーディネーション=手足をタイミングよく動かして次のホールドを掴む動き。

 こうした課題を得意にしていた楢崎にとっては、これが強烈な追い風になったのは言うまでもない。

 無論、だからといって楢崎の見せた大舞台での際立つ勝負強さや残した功績が色褪せるわけでしない。ただ、このシーズンの楢崎は「目覚めた」というより、「眠ったまま」で勢いに任せて勝ったと表現したほうがしっくりくるというだけだ。

 その2016年シーズン、楢崎のなかに覚醒した部分があるとしたら、それは「勝つための意識」だったのではないだろうか。

 話を冒頭の課題に戻そう。

 楢崎は準決勝の第1課題を完登し、第2課題はゴール取りが届かずに完登を逃した。驚かされたのは、結果ではなく、楢崎の見せた足使いにあった。

 第1課題で目を見張ったのが、ゴール取りに出る前の動きだ。楢崎は小さなフットホールドにしっかり乗り込みながら重心を移動させて、ゴール取りに移行した。この見た目の地味な動きだけを切り出せば、世界屈指のスタティックムーブで課題をあっさりと完登した土肥圭太にも劣らなかったほどだ。

 競技中の選手は、自らが得意とする動きを選択する傾向が強い。以前までの楢崎なら、ゴール前でランジできる体勢をつくったら、簡単に飛び出してゴール取りを狙っていただろう。

 しかし、最大の武器であるダイナミックムーブに頼るのではなく、完登するために求められる動きを冷静に選んで実行した。そこに感心させられたのだ。

 ゴール取りでランジが求められた第2課題は、完登はできなかったものの、楢崎のバージョンアップしたスメア能力に釘づけになった。スメアとは、壁にシューズの底を押し当て、力を加えた刹那に生まれる摩擦力を登るために使うテクニックだ。

 それまでの楢崎のスメアは、すっぽ抜けるイメージが強かった。だがこの課題では、体勢が悪すぎて高度は稼げなかったものの、右足はしっかりとスメアを効かせていた。

「短所を補い、長所を伸ばす」

 言葉にするのは簡単だが、練習量の割合が短所に偏り過ぎれば長所を失う、極めてデリケートなものだ。日本代表になるトップ選手ならば、なおさらだろう。

 その難しい取り組みに対して、楢崎は自身の特長であるダイナミックムーブや、ホールドを触った瞬間に指先で一発で掴むコンタクトストレングスの能力を低下させることなく、対極にあるスタティックムーブを磨き上げた。しかも、それを実戦で繰り出せる。

 これは一朝一夕に高められるものではない。長い年月をかけて取り組んできた成果だろう。

 2016年の華々しい活躍もあって、楢崎は優勝回数が多いと思われがちだ。しかし、W杯ボルダリングの優勝は、2017年はゼロ、2018年と2019年は各1勝しかない。対して2位は2017年が4回、2018年は2回、2019年は3回。

 どんな大会であってもコンスタントに結果を残せるのが、楢崎の強みである。一方で、勝ち切れない理由を自問自答しながら、足りない技術を日々高める努力をしてきたのは容易に想像できる。

 それが、2019年の世界選手権での萌芽につながった。

 この年、楢崎は世界選手権ボルダリングの準決勝を突破すると、6人で争う決勝では4課題のうち2課題を完登。ほかの5選手が1完登もできずに終えたなかで、圧倒的なパフォーマンスによって2016年以来2度目の優勝を決めた。さらにコンバインドでも優勝し、東京五輪の日本代表を掴み取った。

 今年1月、楢崎はオフシーズンから取り組む新たなテーマを明かしている。

 これまでの楢崎は、登りながら腕を引くと胸を張れないために、肩が猫背のように前方に位置した。ただ、この姿勢だと次へのムーブに移る際、身体の動きに制約が増えるなどデメリットが多かったため、胸を張った姿勢のまま肩甲骨で腕を引けるようにモデルチェンジを決意したという。

 迎えた今季初戦のボルダリング・ジャパンカップでは2位。「シルバーコレクターになっちゃいますね」と、おどけながらも、その視線は目標をしっかりと捉えていた。

「姿勢の改善を試せたので、そこはよかったです。動画をしっかりと見直して、何ができて、どんな時にできなかったのかを確認して、もっと精度を高めていきたいと思います」

 楢崎が最大の目標にしてきた2020年の東京五輪は延期になった。きっと来夏、無双状態に覚醒した楢崎智亜が世界中を魅了するはずだ。