東京五輪&パラリンピック注目アスリート「覚醒の時」第20回 クライミング・野口啓代苦手を克服したワールドカップ・ボルダリング第4戦(2018年) アスリートの「覚醒の時」——。 それはアスリート本人でも明確には認識できないものかもしれない。…

東京五輪&パラリンピック
注目アスリート「覚醒の時」
第20回 クライミング・野口啓代
苦手を克服したワールドカップ・ボルダリング第4戦(2018年)

 アスリートの「覚醒の時」——。

 それはアスリート本人でも明確には認識できないものかもしれない。

 ただ、その選手に注目し、取材してきた者だからこそ「この時、持っている才能が大きく花開いた」と言える試合や場面に遭遇することがある。

 東京五輪での活躍が期待されるアスリートたちにとって、そのタイミングは果たしていつだったのか……。筆者が思う「その時」を紹介していく——。



東京五輪で野口啓代の笑顔を見ることはできるか

 時代の荒波に飲みこまれてしまうかと思われていた元女王は、4年の歳月をかけて、再び世界の頂点を狙えるところに戻ってきた。

 野口啓代は2007年にW杯ボルダリングにデビューすると、2008年には日本人女子で初めてのW杯ボルダリングで優勝。2015年までにW杯ボルダリング年間優勝を4度も獲得した。

 その野口に転機が訪れる。

 故障もあって2015年シーズンかぎりでの引退を考えていたが、スポーツクライミングの東京五輪実施が決まったことで、競技生活を東京五輪まで継続することを決意した。

 しかし、待っていたのは茨の道だった。

 五輪種目になったこともあって、W杯ボルダリングの課題は、従来まで主流だった強傾斜壁での保持力勝負から、ダイナミックに身体全体を使うことが必要なコーディネーション課題や、足のみでバランスを保つような課題へと変化した。

 野口の特長は、指先でホールドを掴む保持力の抜群の強さにある。これを起点にして、身長165cmの手足の長さと柔軟性を生かしながら、課題を登っていく。こうした強さはW杯ボルダリングの長いキャリアのなかで培われたもので、いまだ野口の右に出るものはいない。

 だが、それだけでは勝てないと時代になった。

 野口の最大の武器が生きる課題は減少し、苦手な動きが求められるようになったことで、2016年のW杯ボルダリングは未勝利で年間4位。2017年は年間3位になったがまたも未勝利で、W杯ボルダリングのキャリアで初めての予選敗退も味わった。

 上位には入るものの、野口は勝負どころで苦手な課題を攻略できずに、以前まで定位置だった表彰台の中央からは遠ざかった。

 ただ、それでも東京五輪での成功に照準を合わせる野口は、目先の結果に左右されず、苦手な課題を克服するため、必要な能力を高めるためのトレーニングに励んできた。

 その成果が発芽したのが、2018年シーズンだった。

 W杯ボルダリング第3戦(中国・重慶大会)で3年ぶりの優勝を果たすと、第4戦(中国・泰安大会)では覚醒を予感させるパフォーマンスを見せたのだ。

 第3戦での決勝課題は、2015年までに見られた保持力勝負の内容で、こうした課題に野口が抜群の強さを発揮して優勝したことに驚きはなかった。だが、第4戦での決勝課題は野口の苦手とする、身体の使い方が求められる課題が盛り込まれていた。それが第3課題だった。

 第3課題はスタート直後、右方向へダイナミックな横移動が求められるもので、ここが核心部だった。

 スタートの体勢をとったあとに、右足を左右に大きく振って反動をつくり、振り出した右足が次のホールドを踏んだ刹那、さらに右方向にあるホールドに飛びつく。両手でホールドを押さえると同時に、身体の勢いを消すため、右足で別のホールドを踏む動きが求められた。

 この大会の決勝を戦ったひとりで、2位になった野中生萌はこうした内容の課題を得意にする選手だが、ダイナミックな横移動のパートに苦戦して、5回目のアテンプト(※)でようやく完登。対して、野口は2度目のアテンプトで完登したのだ。

※アテンプト=スタートを切ること。完登数が同じ場合は、完登した課題のアテンプト数が少ない選手が成績上位となる。

 前年までの野口なら、完登はおろか、スタート直後の動きにも手こずっていたのではないかと思う。

 この課題を攻略して優勝を手繰り寄せた野口は、次戦のW杯ボルダリング八王子大会で、第4戦の苦手課題攻略がフロックではないことを証明する。

 八王子大会の決勝でも、次のホールドを取るために飛びつくや、手と足を同時に使う動きを求める課題があったが、これをあっさりと攻略。優勝を手繰り寄せて、女王復活への狼煙を上げた。

 だが、野口の王座奪還への道は、まだ半ばに過ぎない。

 野口が新時代の課題への対応に苦しむ間、スポーツクライミング界には巨大な新星が誕生している。それが、スロベニアの生んだ天才クライマー、ヤーニャ・ガンブレットだ。

 2019年の世界選手権では、コンバインド、リード、ボルダリングに優勝。三冠を成し遂げた女王が、名実ともに世界の頂点に君臨している。

 この強大なライバルを乗り越えなければ、野口が目標にしてきた「東京五輪での大団円」にはたどり着けない。それを最も理解しているのも野口本人だからこそ、昨夏の世界選手権コンバインドで2位になって五輪代表内定を勝ち取った際には、次のように語っている。

「ヤーニャに勝てたことが自信になりましたね。これまで一度も勝ったことはなかったので、コンバインドのなかのボルダリングですけど、彼女に勝てたことは大きかったです」

 正確性を期すなら、野口はW杯ボルダリングでヤーニャよりも上回る順位を何度か記録している。しかし、ヤーニャがW杯ボルダリングに本格参戦した2017年以降では、2017年の1試合しかない。

 2018年シーズンに野口が3勝をマークした試合は、すべてヤーニャは欠場していた。

 もし出場していたら、2018年の野口の結果は違ったものになっていたかもしれない。だが、野口が苦手をひとつ克服したことは、揺るがない事実だ。

 苦手克服に励んだ日々の成果は、2019年にコンバインドのボルダリングとはいえ、女王の牙城をひとつ崩すことで現れた。もうひとつ克服すれば……。

 今シーズンの幕開けに向けて、野口は昨年の世界選手権後に取り組んできたことを、次のように明かしている。

「この冬は緩傾斜でのトレーニングを多くしてきました。緩傾斜でも、手も使うような課題なら登れることが多いけど、手でホールドを持てずに足だけでしっかりホールドを踏んで登るような課題は、すごく苦手にしてきたので。そこを克服しようと取り組んできました」

 その成果を発揮する大舞台は来夏に持ち越され、本来はこの夏限りだった野口の競技人生も1年先延ばしになった。31歳にしてなお進化を遂げる野口は、ここからの1年で苦手にしてきた動きの精度を高めていくことになる。

 そしてその先には、女王帰還物語の完結が待っている。