※この取材は5月8日にリモートで行われたものです。自分の人生を懸けて――東京五輪への挑戦と変革 2016年。二つの五輪でのメダルを始め、日本フェンシングをけん引していた太田雄貴氏(日本フェンシング協会会長)が引退した。その直前に出場した大…

※この取材は5月8日にリモートで行われたものです。

自分の人生を懸けて――東京五輪への挑戦と変革

 2016年。二つの五輪でのメダルを始め、日本フェンシングをけん引していた太田雄貴氏(日本フェンシング協会会長)が引退した。その直前に出場した大会がリオデジャネイロ五輪であり、初戦敗退で悔し涙を飲んだ。その太田の敗北を間近で見ていたのが、大学2年生だった松山恭助(令2スポ卒=現JTB)である。当時から活躍を嘱望(しょくぼう)されていた選手だったが、この光景を目の当たりにし、漠然としていた五輪の夢を本気で志すようになった。そして男子フルーレのチームキャプテンとして切磋琢磨(せっさたくま)を始めることになる。そこには「4年後に借りを返したい」という松山の並々ならぬ思いがあった。

 明確な目標を掲げた一方で、東京五輪への道は多くの苦難が待ち受けた。フェンシングの五輪出場は開催前年の一年間の結果が基準となる。団体での出場権を獲得すれば、個人の出場枠を増やすことができるため、キャプテンとしてチームのまとめ役も担った。団体戦で結果が出なかったときは、チームの一体感を高めるために、選手とのコミュニケーションやミーティングを通じて、思考や価値観の共有に取り組んだと振り返る。またチームに対するアプローチのみならず、松山自らにも挑戦を課した。9月の国内大会での敗退もあり、練習の内容のみならず、日常や試合でのメンタルの持ち方を見直すことに。昨年11月のドイツ大会では6位と、上位勢に肉薄する活躍を残した。
 しかし、個人戦、団体戦共に、満足がいく結果を継続することはできなかった。「東京五輪前のシーズンを中心選手、キャプテンとして戦ってみて、ものすごい苦しい、しんどいと言いますか。精神的な負担もすごい大きいなということを戦って感じた」。五輪出場に向けて重要になる団体戦は、6月のアジア選手権優勝後はメダルに届かない大会が続き、出場権の目安である世界ランキングも、思うように上がらなかった。団体出場権をかけて争うライバルの背中は日に日に遠くなっていったが、松山は可能性を信じて、世界大会に挑み続けた。

アジア選手権(19年6月)での松山(写真提供:松山選手)

 2020年2月。全ての団体戦を終え、日本の世界ランキングは7位。ロシア、香港、韓国に次ぐ順位で、東京五輪の自力での団体出場権を逃す結果だった。松山は「どこかで最後の最後まで奇跡と言うか、そういうものは信じて戦っていたんですけど。今、客観的に振り返ってみて、自分のプレーだったりチームの状態だったりを見たときには、物足りなさはあった」と語る。日本代表は開催国枠によって4種目の団体出場権が与えられるため、出場できる可能性は高い。しかしこの1年で、世界の高い壁を十分すぎるほど突き付けられた。五輪までの残された時間で、選手それぞれが自身を見つめ直し、努力を続けるしかない。だが3月下旬、舞い込んできたのは、東京五輪の延期の知らせだった。

 

世界選手権(19年7月)での松山(写真提供:松山選手)

 「準備期間が増えたなと。強くなれる、自分がオリンピックでメダルを獲れる可能性が上がったなというポジティブな気持ちが大きかった」。五輪延期を聞き、松山は率直にこう思ったという。ポジティブな側面ばかりではないが、対人競技ゆえに必要とされる気持ちの調整に大きな影響はない。むしろ世界とのレベルの差を埋めるチャンスになる―
 それでは一年という長い準備期間をどのように使うのか。好結果につながらなかった去年と比較し、松山にとって、チームにとってプラスになる取り組みを模索している。その一つがSNSだ。日本においてフェンシングの注目はどうしても五輪シーズンに限られてしまう。自粛期間を通じて「より多くの人に自身を、フェンシングを知って欲しい。」(松山)そんな思いを胸に、フェンシングのレクチャー、日本代表フェンサー、船水颯人(平31スポ卒=現・ヨネックス)といったアスリートとのコラボなど、幅広い視点で情報発信をしている。延期決定後から始まった毎日の投稿は現在も継続中。またフェンサーに対して技術を還元することで、日本代表としての姿勢を改めて確認させるきっかけにもなった。松山は新たな取り組みに手応えを感じている。

自宅で動画を撮影している松山。編集も自ら行う(写真提供:松山選手)

 選手としてできることも怠らない。同時に一日一日を少しでも濃いものに、松山は変化、チャレンジを自分自身に課している。それは東京五輪で個人、団体金メダルという、「揺るがない」目標があるからだ。
 「キャリアの中でも一番大事な瞬間に立ち会っている」。五輪レースが繰り広げられた1年間は、苦しむ時もあったが、松山を成長させた期間でもあった。「結果が出なかったりするとすごく責任感を感じますし、プレッシャーで去年は本当に気持ちの浮き沈みがありましたね」。大会を通じて経験値を積むことで、冷静な思考を培った。また世界大会を通じて再認識したのはフェンシングの面白さ。それは勝敗にこだわらない、駆け引きに代表される、より本質的な面白さだった。「色んなスポ―ツがある中でフェンシングを見てほしいなという思いはあります」。自身の活躍と同時にフェンシングの奥深さを日本中に知ってもらうことも、松山を動かす原動力なのである。

  前回の五輪から間もなく4年の月日が経つ。松山の目に映った五輪の舞台は、長い月日と世界大会を転戦してイメージが変わった。「当然なのかもしれないですけど、選手それぞれがその一瞬、五輪に人生を懸けて戦っているのが肌感覚で伝わってきた」という。五輪を懸けて選手の立場で戦って初めて分かる境地。これまでの戦いで感じてきた五輪に対するプレッシャー、高揚感が、五輪に重みを与える。だからこそ松山にとって「五輪の舞台は特別」なのだ。東京五輪の開催は2021年が想定されているが、不透明な部分も多い。しかし5年に及ぶ挑戦は、大きな重みを持つことが想像できる。松山が東京の地で『5年前の借り』を返す姿に期待したい。

(記事 小原央)

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