連載「Voice――今、伝えたいこと」第26回、岩を登り続けるフリークライマーの覚悟 新型コロナウイルス感染拡大により、スポーツ界はいまだかつてない困難に直面している。試合、大会などのイベントが軒並み延期、中止に。ファンは“ライブスポーツ”…

連載「Voice――今、伝えたいこと」第26回、岩を登り続けるフリークライマーの覚悟

 新型コロナウイルス感染拡大により、スポーツ界はいまだかつてない困難に直面している。試合、大会などのイベントが軒並み延期、中止に。ファンは“ライブスポーツ”を楽しむことができず、アスリートは自らを最も表現できる場所を失った。

 日本全体が苦境に立たされる今、スポーツ界に生きる者は何を思い、現実とどう向き合っているのか。「THE ANSWER」は新連載「Voice――今、伝えたいこと」を始動。各競技の現役選手、OB、指導者らが競技を代表し、それぞれの立場から今、世の中に伝えたい“声”を届ける。

 第26回はフリークライマーの大場美和が登場する。東京五輪の新種目に採用されたスポーツクライミングのトップ選手として活躍していたが、18年をもって競技を退き、岩を登るフリークライマーに転身。22歳が自然に挑み続ける理由とは――。

 ◇ ◇ ◇

 もし、今、急いでいない人は、この記事を読む前に「大場美和 インスタグラム」で検索してみてほしい。

「miwa_oba」のアカウントに何本も投稿された動画。文字で書き連ねるよりも早い理解が映像ひとつで得られる。青空の下、まさに断崖絶壁という岩にとりつき、身長163センチの何倍もある高さを登る様子が収められ、フォロワーから驚きのコメントが並ぶ。

 動画に映っている女性こそ、大場美和、22歳。職業はフリークライマーである。

「初めて登る岩の前に立つと『かっこいいなあ、この岩』って思うんです。次に『これを登りたい』と思い、どうやったら登れるかを考える。どこが持てるか、ここを右手で行って、ここに左足を置けばいけるかな、とか。そういう風にしてゴールまでの道のりを紐解いていく感じが好きだし、何より登り切った時に見える風景が気持ちいい。やっぱり、日常では味わえない感覚ですね」

 そう語った、競技の魅力。現在、日本では希少なプロクライマーの一人として活動し、関東近郊の山にある岩場を登っている。一方で「クライミング」と聞いて今、最も認知されているのは「スポーツクライミング」だろう。

 東京五輪から正式に採用され、注目されている新種目。高さ15メートルの壁の登る速さを競うスピード、高さ5メートル以下の壁に設定された複数のボルダー(コース)を制限時間内にいくつ登れたか競うボルダリング、12メートル以上の壁に設定されたコースで登った高さを競うリード。その3つで記録した順位をポイントに換算し、総合順位で成績を争うものだ。

 大場ももともと、スポーツクライミングで日本のトップ選手だった。出会いは、一冊の雑誌で見た写真だった。

運命を感じたクライミング、成功に「嬉しさ」と「寂しさ」が同居するワケ

 タイトルはよく覚えていない。でも、クライミングの専門誌じゃないことは確か、という。

「小学4年生の時、日本でワールドカップ(W杯)が開催されたことが取り上げられていて、壁を天井みたいな高さまで選手が登っている写真があった。『ああ、カッコいいなあ』と思ったんです、『私もやってみたい』って。ワクワクするような感覚でした」

 小さな予感は、実際にクライミングのジムに行くと、確信に変わった。もともとやっていた器械体操を怪我で諦め、「何か新しいスポーツをやりたい」と思っていたタイミング。「小さな子どもが木登りをする感覚で、自分の力で高いところに登っていく感覚が楽しくて」。無機質な壁に、運命を感じた。暇を見つけてはジムに向かい、何度も落ちては登り、成功するまで繰り返した。

 のめり込むと、成績もついてきた。手足が長い、恵まれた体格。「クライミングを続けていくうちに大会に出る、W杯を目指すみたいな自然の流れで。あまり深く考えず、W杯の道を歩んでいた感じ」。13歳でJFAユース選手権のリード、JOCジュニアオリンピックで優勝。東京五輪金メダル候補の野口啓代、野中生萌らとともに、クライミング界で将来を嘱望される存在にまでなっていた。

 活躍の舞台は、選手の枠を飛び越えた。高2の時にはCMに出演。制服姿で学校の壁をよじ登った動画は、1週間でネット再生100万回を超え、「校舎をよじ登る女子高生」として話題になった。クライミングを題材にした映画ではヒロインも務めた。

 クライミング人生の転機となったのは、世界的なフリークライマーとして活躍していた小山田大との出会い。屋内を飛び出し、雄大な自然で岩を登るフリークライミングの魅力を知り、「私もその世界でやってみたい」と次第に憧れが膨らんだ。

 スポーツクライミングに区切りをつけたのは20歳の時。東京五輪の種目に採用されることが決まっていたが、迷いはなかった。

「自然が作り出したものと戦うことが、私にとっては魅力でした。クライミング自体、岩を登ることから始まって、今のスポーツクライミングに発展していった。もともとのクライミングをしたいと。人間が自然にある岩を登ることにすごくロマンも感じたんです。岩にある少しのとっかかりだけを頼って、最初から最後まで登っていく。それが、私にとってすごく楽しかったんです」

 スポーツクライミングは競技性が高く、ライバルと成績を争う競争意識が強かった。しかし、自然の岩を登る時、戦う相手は自分になる。「私も人と争うのは向いてないと思うところもあった」と分析する。「常に自分との戦いで、自分のペースでできる。そこが合っていと思うし、自然で見える景色も好きになります」。小4で感じた運命はフリークライミングにつながっていた。

 以降はプロのフリークライマーとして岩を登り続けている。しかし、自然を相手にするから難しいこともある。課題として認定されている岩場まで険しい山道を1時間以上かけて登ることもざら。「一般の方なら辿り着くだけでヘトヘトになるかも」と笑う。

 そんな過酷な環境で挑戦し続ける。「クライミングは失敗が多い競技」という。「もう投げ出したくなることもよくあります。でも、投げ出してしまったら一生登れないから」。その裏で、ようやく成功した時、歓喜と一緒にやってくる特別な感情がある。

「一つの課題に何年もかけて登ることもある。一度の成功のために何百、何千という失敗をすることがある。それくらい、思い入れの強い課題なら成功したら涙が出るくらい嬉しい。同時に“寂しさ”があるんです。一度登ってしまったら、同じ課題を登ることはほとんどない。それまで生活の中心だったものが、一気に変わってしまう。だから、また新しい課題を見つけていくのかな」

 成し遂げた成功に「嬉しさ」と「寂しさ」が同居する珍しい競技。そんな唯一無二の魅力の恋して、岩と向き合っている。

「人類にはまだ登れない岩がある」―クライマーでいる限り終わりのない挑戦

 この春、スポーツ界を襲った新型コロナウイルス。大場がかつて心血を注いだスポーツクライミングも大きな影響を受けた。

 大会はもちろん、選手は練習も満足にできない状況に陥った。しかも、スポンサーから金銭的なサポートを受けられる者は「東京五輪候補」といわれる、ひと握りのトップ層のみ。それ以外の多くはクライミングジムなどで働きながら、生計を立て、競技を続けている。しかし、クライミングジムも営業が難しく、収入が減った選手も増えているという。大場も選手たちの胸中を慮る。

「いつ感染が収まるか、大会ができるかわからない状態でトレーニングを続けてきた。それはつらいだろうなと思います。多くのクライマーが改めて、クライミングができるのは安定した社会環境があった上でのことと痛感している。普段、クライミングができていたのは、どれだけ幸せなことだったのか。どうすればクライミングの文化を守っていけるか考えるきっかけになりました」

 それでも、収束すれば、待っている未来は暗くはないはずだ。1年延期となった東京五輪では、かつて戦った野口、野中を筆頭に、男子も楢崎智亜らメダル候補が揃い、期待が集まる。大場も「五輪は3種目の複合なので展開が読めず、順位も入れ替わる。選手それぞれ登り方もスタイルも違い、想定されたルートを壊して登ってしまうところも含めて楽しんでほしい」とアピールした。

 スポーツクライミングもフリークライミングも、共通することがある。スタートとゴールだけ決まっていて、登り方に正解はないということ。選手の数だけ、登る方法がある。「すごく自由なスポーツ」という競技だから、もっと広まってほしいと願う。

「クライミングには、それぞれにとってのクライミングがあると思うんです。それは、どんな形でもいい。競技として世界を目指すのでもいいし、私のように岩に上って自分の限界に挑戦するのでもいい。あるいは日常生活にエクササイズでやるのでもいい。人の個性に合ったクライミングの形があると思うので、たくさんの人がクライミングを通して楽しい人生になったら嬉しいです」

 自身はフリークライマーとして、文字通り、高い場所を目指していく。「世界的な記録を残せるような実力はないけど、私自身の限界に挑戦していく姿を見せ続けたい。岩も面白いし、カッコいいんだよと伝えたい」とプロ選手として理想を追い求める。

 フリークライミングには「岩と会話する」感覚があるという。「最近、これが岩と会話する感覚なのかなって気づいたんです」。普段は意識が先行するが、無意識に体が動き、正解のルートに導かれることがある。自然を相手にする競技だから奥が深い。

「今、世界にある岩で課題として発表されているものに限りはあるけど、人類にはまだ登れない岩もある。だから、クライマーとしての挑戦に限界はない。単純に一つの課題を登ることじゃなく、クライミングで成長していくことが目的にあると思います」

 インタビュー中、何度も繰り返した「成長」というフレーズ。競技の危険性が話題に上がった時、「確かに、ここで落ちたら怪我するなあ、と思うこともありますよ」と笑った。「それでも、登る理由はなぜですか」と聞くと、こんな言葉が返ってきた。「やっぱり、なんだろう。たぶん、その岩を登ることが本当の目的じゃなく、登るたびに弱点が見えて、成長できるからかな」と。

 自然という戦いの舞台で「自分」に挑み続ける大場美和。挑戦の数だけ得られる成長に、終わりはない。

■大場 美和(おおば・みわ)

 1998年3月7日生まれ、愛知県出身。9歳からクライミングを始め、ユース年代から活躍。得意としていたボルダリングでは17歳で日本代表入り。トップ選手として長年活躍した。20歳だった18年を最後に第一線を退き、フリークライミングに活動に軸足を置く。インスタグラムで岩を登る動画も積極的に公開。また、スポーツクライミングの解説など、競技の普及活動にも尽力している。(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)