MotoGP最速ライダーの軌跡(1)バレンティーノ ・ロッシ 上 バレンティーノ・ロッシに関することは、すでにほとんど語り尽くされているといっても過言ではない。二輪ロードレースが決してメジャースポーツとはいえないこの日本ですら、ロッシに…

MotoGP最速ライダーの軌跡(1)
バレンティーノ ・ロッシ 上

 バレンティーノ・ロッシに関することは、すでにほとんど語り尽くされているといっても過言ではない。二輪ロードレースが決してメジャースポーツとはいえないこの日本ですら、ロッシに関する書籍は拙訳の自叙伝などを含め5冊ほどが刊行されている。現役活動中に何冊もの日本語書籍が刊行されるのは他のライダーでは近年なかったことだし、今後もそんな選手が登場することはおそらくないだろう。



若き日のバレンティーノ ・ロッシ。デビュー当初から人気者だった

 日々の一挙手一投足も相変わらず大きな注目を集め、なにか動きがあれば即座にWeb系のニュースが反応する。驚異的なのは、彼に対する世界規模のそんな熱狂が、四半世紀もの長きにわたってずっと継続しているところだ。

 ロッシが世界選手権125ccクラスにデビューしたのは1996年、17歳の時だ。愛くるしい顔立ちと才能きらめく走りで一躍人気者になり、翌年には15戦11勝でタイトルを獲得。98年には250ccクラスにステップアップし、このクラスでも次の年に王座を手中に収めた。当時から、ロッシは優勝後のウイニングランで派手なパフォーマンスを披露することが多く、そのコミカルで洒脱なアイディアが話題を呼んで、人気は欧州の域を超えてどんどん拡大しヒートアップしていった。

 この頃日本でも、ロッシはロードレースファンの間ですでに人気を集めていた。デビュー直後の125ccクラス参戦時から、毎戦優勝争いを繰り広げていた日本人選手たちに積極的に教えを請い、250ccクラス昇格後もその姿勢は変わらなかった。なかでも阿部典史に対しては、阿部の世界グランプリデビュー戦となった94年鈴鹿の500ccクラス決勝レースを中学時代にテレビ中継で見て以来のファンだと公言しており、阿部の名前になぞらえて自らを〈ろっしふみ〉と名乗るほど敬愛の情を示した。そんなこともあって、ロッシは若い頃から日本のレースファンにとっても非常に近しい存在だった。

 同じイタリア人で、当時大きな人気を誇っていたマックス・ビアッジとの確執が表面化しはじめたのも同じ頃だ。

 1994年から97年まで中排気量クラスを4連覇し、98年には最高峰500ccクラスに鳴り物入りでデビューしたビアッジは、開幕戦鈴鹿で鮮やかなポール・トゥ・フィニッシュを達成して世界中を唸らせた。スーパースターの階段を駆け上ることを約束されていたはずのビアッジだが、実は97年に、125ccクラスの人気者だったロッシとささいなことから舌戦になり、それがきっかけになってビアッジの人気には陰りが見えはじめていた。

 ふたりの確執には様々な要素があるが、この事件以降、彼らの母国イタリアなどの一部メディアでは、両者の不和を煽るような論調に拍車がかかり、ロッシをベビーフェイス、ビアッジをヒールのような位置づけで扱うようになっていった。この時代から、すでにロッシが人々の心理の機微を見切って自分の味方につける術を身につけていたことの証、とも言えるだろう。

 125ccと250ccの両クラスを制覇したロッシが、ホンダから500ccクラスへ昇格したのは20世紀最後の年、2000年だった。5年連続でタイトルを制し、無敵にも見えたミック・ドゥーハンが前年第3戦スペインGPで負傷し、その年かぎりで引退することになったため、ロッシはドゥーハンのクルーチーフだったジェレミー・バージェス以下のスタッフをほぼそのまま引き継ぐ格好の、そして破格のファクトリー待遇でデビューを果たすことになった。

 チームはレプソル・ホンダではなく、小中排気量時代からロッシを支えてきたイタリアのビールメーカーがタイトルスポンサーとなり、ナストロアズーロ・ホンダ、というチーム名称になった。

 まさに世界中の熱い注目が集まったステップアップだった。結果は、全16戦中2勝で、年間ランキングは2位。後年になってロッシは、この年の走りについて「500ccの初年度は学習の年、という姿勢で臨んだためにそれなりの結果になった。むしろ、タイトルを獲得するつもりで戦うべきだった」と振り返っている。バージェスも同様の回顧をしている。

 翌2001年は2ストローク500cc最後のシーズンで、02年からは4ストローク990ccへとマシンの技術仕様が変更になる。つまり、21世紀最初の年は、ロッシにとって伝統の500ccクラスでチャンピオンを獲得する最後のチャンスだった、というわけだ。ロッシは125ccと250ccでそれぞれ参戦2年目にタイトルを獲得しており、500ccクラスでも当然、それを再現するだろうと期待されていた。

 この年の開幕戦は日本GP、鈴鹿サーキットで開催された。このレースはまた、ホンダのマシンが125cc、250cc、500ccの全クラスで優勝すればグランプリ通算500勝を達成する、という大きな記録のかかった一戦だった。偶然とはいえ、そんな節目に巡り合わせる運をもっているのが、ロッシのスター性をよく象徴している。

 そしてレースは言うまでもなくロッシが優勝を飾り、当然のようにホンダグランプリ史の節目を飾る栄誉に浴する。

 この500勝の実現は、125ccと250ccですでにホンダライダーが勝っていることが前提だった。125ccクラスでは、東雅雄が2位以下を僅差で抑えて優勝。「レースの前は、プレッシャーで吐きそうなくらい緊張した」と東はレース後に述べ、ひきつったような笑みをうかべた。250ccクラスのレースは加藤大治郎が独走で勝利した。そして、すべてのお膳立てが整ったところで、満を持したようにロッシが登場して500ccクラスで優勝し、ホンダ500勝の栄冠を独り占めにした。

 この当時のロッシは、そういう華々しいものをすべて自分のもとへ引き寄せてしまう強運と魅力とオーラをすべて備えていた。



ロッシは125ccと250ccクラスをそれぞれ2年目に制した後、500ccクラスでも2年目に王者になった

 マシンとレザースーツはイエローを基調にした派手な配色で、他の選手たちと明らかに一線を画するファッショナブルなセンスが特徴的だった。アルド・ドゥルディがデザインする寓意に充ちた色鮮やかなヘルメットや、レーシングスーツの裾をジーンズのようにブーツの外に出す着こなし、すっと脚を前に上げて燃料タンクの上を跨がるようにバイクを乗り降りするスタイルなど、いちいちすべてがきわだって洗練されていた。

 余談だが、上記の鈴鹿の開幕戦ではビアッジとの遺恨がさらに深くなるできごともあった。

 当時のビアッジはマルボロ・ヤマハのエースライダーで、スポンサーカラーの赤に身を包んでいた。派手なイエローを基調とするロッシのカラーリングとコース上で絡み合うと、否が応でも目につく。そんなバトルのさなかだった。ビアッジが最終コーナー出口で左肘を使ってアウト側にいたロッシをダート部分へ押し出したのだ。コースへ復帰してストレートでビアッジの前へ出たロッシは中指を突き立て、挑発し返した。

 私事になるが、ロッシに初めて長時間のインタビューをしたのが、たしかこのシーズンだったように記憶している。さまざまな質問をしていくなかで趣味や嗜好などにも話題がおよび、好きな色は黄色だというロッシに、では嫌いな色は、と話の流れで重ねて訊くと、赤、と即答して妙にすました表情で口を閉じた。おそらく言外にビアッジを示唆したのだろう、と理解した。

 このシーズン、ロッシは16戦中11勝を挙げ、2ストローク500ccクラス最終年の世界チャンピオンという栄誉を手中に収めた。翌年から、二輪ロードレース世界選手権は、4ストローク990ccのMotoGP時代を迎える。時代の節目を跨いでロッシの破竹の快進撃はなおも続き、彼のカリスマとスター性はさらにもうひとつ上のステージへと昇華されてゆく。
(つづく)
【profile】バレンティーノ・ロッシ Valentino Rossi
1979年2月16日生まれ、イタリア・ウルビーノ出身。MotoGPにおける現役最年長ライダーで、現在ヤマハ所属。グランプリライダーの父グラジアーノの影響で、幼少期からレース経験を積む。96年に125ccクラスデビューを果たし、翌年、世界タイトルを初獲得。250ccクラス王座を経て、当時最高峰クラスの2ストローク500ccを2001年に制覇。02年から始まったMotoGPでは4年連続を含む計7回タイトル獲得。