追憶の欧州スタジアム紀行(8)スタディオ・オリンピコ(ローマ) 90年イタリアW杯。ローマのスタディオ・オリンピコは、決勝戦を含む計6試合を行なっている。イタリア代表がグループリーグを1位で抜け、決勝まで進めば、全7戦中、準決勝以外の6試合…
追憶の欧州スタジアム紀行(8)
スタディオ・オリンピコ(ローマ)
90年イタリアW杯。ローマのスタディオ・オリンピコは、決勝戦を含む計6試合を行なっている。イタリア代表がグループリーグを1位で抜け、決勝まで進めば、全7戦中、準決勝以外の6試合をオリンピコで戦う手はずになっていた。
準々決勝まで計画は順調に進んだ。ところがナポリの「サンパオロ」で行なわれた準決勝で、イタリアはアルゼンチンに延長PK戦負けを喫する。
決勝進出を当て込んだイタリア人が7割方を埋めた決勝(西ドイツ対アルゼンチン)のスタンドは、祭りのあとを思わせる虚脱感が交錯していた。けっして面白いとは言えなかった決勝戦の試合内容に、大きな影響を与えた気がしてならない。
2009年チャンピオンズリーグ決勝の舞台ともなったスタディオ・オリンピコ
この大会、筆者がオリンピコで観戦した試合はこの決勝戦のみ。イタリア代表が見たくなかったというより、当時のローマの街の治安が異常に悪かったことと大きな関係がある。この頃は特に酷かった。ホテルが集中するテルミニ駅周辺が一番の危険地帯で、早い話が、ドロボーだらけ。ひとりで外出するには覚悟が必要なほどで、不穏なムードに包まれていた。
オリンピコは市の中心からやや離れたテベレ川沿いにある。『ローマの休日』で知られるスペイン広場からは徒歩数分。ポポロ広場の裏手から市電に乗ると、10分ほどで最寄りの停車場に到着する。
94年夏にはサッカーとは別件で、オリンピコを訪れている。スタジアムに隣接する屋外プールで開催された水泳の世界選手権を取材するためだ。日本の競泳陣がレベルを上げていたこともあるが、90年イタリアW杯の時、メディアセンターがそのプールサイド付近に設置されていて、リゾート感覚溢れるお洒落で華やかな雰囲気だったことも、取材する動機を後押ししていた。
「あのオリンピコの脇にあるお洒落なプールで世界選手権をやるなら、行くしかないね」と、カメラマンと話し合って、決めた記憶がある。
日本でメディアセンターと言えば、市役所のような事務的な場所と相場は決まっている。いまなお、楽しそうにしていると不謹慎だと言われかねない堅苦しさを感じる場所だが、オリンピコは違った。パーティー会場に足を踏み入れたような華やかなムードを味わうことができた。劣悪な治安の街中と同じ国とは思えない、まさに別世界だった。スポーツの地位の高さを思わずにはいられなかった。
これがローマに限らず、日本以外の国、ほぼすべてについて言えることだとわかったのは、それからしばらく経ってからの話だが、それはさておき、水泳世界選手権の期間中、1日だけミラノに出かけ、サンシーロでサッカーを観戦している。ミラン対ジェノア。カズこと三浦知良のセリエAデビュー戦だ。
ミラノとローマ。イタリアを代表する両都市の、サッカーにおける力関係は当時、断然ミラノが勝っていた。ミランは前シーズン(1993-94)のチャンピオンズリーグ(CL)の覇者で、このシーズン(1994-95)も決勝に進出。ウィーンのエルンスト・ハッペル・スタジアムでアヤックスと対戦した。
勝ったのはアヤックス。ミランの2連覇を阻止したアヤックスは、続く1995-96シーズンも決勝に進出。今度は2連覇を狙う側に回った。相手はユベントスで、舞台はローマ。スタディオ・オリンピコだった。
下馬評ではユベントスが圧倒的に有利だった。アヤックス側がメンバー落ちだったことが一番の理由だが、舞台がイタリアの首都だったこと、つまりユベントスにとっては地元だったことも、その理由のひとつだろうと想像した。
決勝のチケットは、両軍のサポーターに各3分の1、地元ファンに3分の1割り当てられる。オリンピコの収容人数は6万9000だったので、ユベントス、アヤックス両軍サポーターに各2万3000枚、地元ローマのファンに2万3000枚配られたとプレスリリースには記されていた。
4万6000人のイタリア人がオリンピコを埋めることになれば、ユベントスのホーム色は増す。アヤックスは後手に回るだろう--との読みは、完全に外れた。スタンドのゲートをくぐり、眼前に観客席が開けた瞬間、目を疑った。赤色のアヤックスカラーが、3分の1ではなく、3分の2を占めていたからだ。ユベントスの黒はわずか3分の1。オリンピコはアヤックスホームと化していた。
地元ローマ市民は、分配されたチケットをアヤックスファンに譲ったか、あるいはアヤックスのユニフォームを着て入場したかのどちらか、だった。
「ローマ人にとって、ユベントスとアヤックス、どちらが嫌いかといえばユベントスだ。遠くの敵(アヤックス)より近くの敵(ユベントス)の方が憎たらしい存在なのだ」とは、イタリア人記者による説明だった。
このような場合、同国人のよしみが働かないのが欧州。CL観戦を通して学んだ、これが一番のカルチャーギャップになる。CLを通して、最も発信していかなければならないサッカー文化である。
オリンピコは2008-09シーズンも、CL決勝の大舞台を任された。筆者がCLの歴史27シーズンの中で、最も注目した決勝戦になる。バルセロナ対マンチェスター・ユナイテッド。マンUにとっては2連覇を懸けた戦いだった。
驚いたのはブックメーカー各社の予想だった。すべて同じ見解だったからだ。50対50。両者互角。これは前代未聞である。全くの互角という予想を見るのは、後にも先にもこれが初。言ってみれば、ブックメーカー各社は予想を放棄したも同然だった。
オリンピコのスタンドも両軍、きれいに半々に分かれた。地元ローマ人の反応もブックメーカーに倣っていた。
ローマ市内の治安は、90年代前半に比べると、ずいぶん改善されていた。アクティブだったのはバルサのサポーターで、トレビの泉やスペイン広場など、市内の観光名所に集まり、我が世の春を謳歌していた。
マンUサポーターはインドア的で、レストランやカフェなどで、ローマの熱い初夏の陽射しを避けるように、ビールをゆっくりあおりながら、まったりと時間を過ごしていた。
オリンピコに早く集合したのはバルサファン。10分、15分、平気で試合に遅れてくるカンプノウでの通常とは異なり、真面目で気合いが入っていた。欧州一のタイトル獲得に飢えているのはバルサ。連覇を狙うマンUサポは、渇望感に欠けている--との見立ては、的中することになった。
バルサはマンUを2-0で下した。CL2連覇が難しい理由を、ローマ市内におけるマンUサポーターの行動に垣間見た気がする。
だが、オリンピコと言われると、やはり90年W杯のメディアセンターを想起する。プールが見えるテラス席で、ワインを飲み、チーズをつまんだ記憶はいまなお鮮明だ。30年前のオリンピコは、戻りたくなる場所、時間なのである。