『Sports Graphic Number』では、6月4日発売の「Jリーグ歴代最強チームを探せ!」(仮)特集に向けて、読者のみなさんにとっての「史上最強クラブ」を問うアンケートを実施中です。NumberWebでも長年Jリーグを見続けてきた解説者、関係者、ジャーナリストが思う「J最強クラブ」をシリーズでお届けします。

 タイトルを獲得したチームは記憶に残りやすい。どこのクラブも歴史を紐解く時、優勝を果たした集団こそが最強だったと理解するだろう。

 過去に長く番記者として取材してきた名古屋グランパスにおいて、強く記憶や印象に残る「マイベストチーム」を挙げてほしいという依頼を編集部から受けた。

「“ピクシー”ストイコビッチ監督初年の2008年のサッカーは美しかったですよね。でも優勝した2010年のチームがベストですかね」

 編集者からそんな言葉を投げかけられると、忘れかけていたあるインパクトが頭の中で蘇った。優勝した翌2011年。結果的には最終節まで柏レイソルと覇権を争い、勝ち点「1」の差で連覇を逃した。年表上には何も残っていない無冠のシーズン。ただ、はっきりと言い切れる。あの年の名古屋は、滅法強かった。 

豪華メンバーで連覇を狙うシーズン。

 田中マルクス闘莉王、金崎夢生、ダニルソン。優勝した2010年は彼ら大型補強が如実に結果に結びついたシーズンだった。

 当時のメンバーは、今振り返っても「絢爛豪華」だった。守備陣はGK楢崎正剛、DFには闘莉王の日本代表勢が構える。中盤には超人的な身体能力でJを席巻したダニルソンや元日本代表の中村直志、2008年のJリーグベストイレブン&新人王に輝いた小川佳純などが名を連ねた。前線には日本代表の玉田圭司に当時若手の有望筆頭株だった金崎、そしてオーストラリア代表として過去の日本戦でも脅威を与えたジョシュア・ケネディが最前線にそびえ立つ。

 連覇を目指した2011年。さらに戦力は増強される。中盤に彩りを加えるべく、現役日本代表として活躍したMF藤本淳吾が清水エスパルスから加入した。そして複数クラブとの争奪戦を制し福岡大学から獲得した、スピードアタッカー永井謙佑。無尽蔵の体力で右サイドを疾走する田中隼磨、2010年のベストイレブンで闘莉王と守備の壁を築いた増川隆洋、左足のスペシャリスト阿部翔平ら、いぶし銀の働きでチームを支えるタレントも健在。

 チームは充実の一途を辿った。

序盤は波に乗れず、ACLも敗退。

 シーズン序盤は主力に負傷者が続出するなど波に乗れなかった。各選手がトップコンディションを維持する難しさにも直面し、不安定な戦いの連続だった。その合間に移動を伴うACLも重なり、結果も内容も前年の盤石さとは程遠い姿を露呈していた。

 苦労して決勝トーナメントに勝ち上がったACLは、5月下旬に行われたベスト16の舞台で水原三星(韓国)に惜敗。頂点への道は絶たれた。アジア王者は、名古屋にとってリアルな夢だった。

 ACL覇者に与えられる、FIFAクラブW杯の出場権。当時の大会メインスポンサーは、言わずとしれたトヨタ自動車。そう、名古屋のユニフォームの胸に刻まれるこの世界的メーカーが催す大舞台に立つことが、大きなモチベーションだった。

中3日、福岡戦での5得点。

 悔恨のACL敗退で、燻っていた名古屋の目の色が変わった。

 韓国での敗戦から中3日で行われた、豊田スタジアムでのアビスパ福岡戦。「相手がどこだろうと関係ない。絶対に負けられない試合」とピクシーも血眼になって選手を鼓舞した一戦は、ケネディ&玉田のアベックゴールに、加入後ここまでチーム戦術に馴染めていなかった藤本が相手を突き放す渾身の得点を決めた。取るに取って、合計5ゴール。悪い流れを力ずくでも断ち切ってみせる。気持ちが伝わる劇勝だった。

 前年王者の意地の快進撃が、ここからスタートする。ケガ人も減り、本来の選手層を生かせるようになった。さらに不本意ながらも国内の試合に集中する環境になり、本来の地力が顕著になっていった。5月下旬の福岡戦を皮切りに、15試合を11勝4分け無敗という戦績で走り抜けていく。特に7、8月の真夏の時期に挙げた7連勝は、熱暑の戦いに苦しむ他クラブを尻目に、これでもかと力強さを誇示する戦いぶりだった。

「美しいフットボール」への回帰。

 個人的には、このシーズンの名古屋には、大きなターニングポイントが2度あったと考えている。最初はACL敗退と、直後の福岡戦で見せた気概ある勝利。そしてもう1つこそが、実は過去のクラブ史の中でも、2011年のチームが最強だったという見解を後押しすることになる。

 それは、連動性・機能性の高いサッカーの復活。ピクシーの言葉を借りれば、「美しいフットボール」への回帰だった。2010年の名古屋は、どこよりも強かったが、同時にサッカー関係者やファンからはこう揶揄もされた。

「個人に頼り切ったサッカー」

 闘莉王、ケネディの高さやパワーは、れっきとした武器だった。敵からしたら、わかっていても止められない次元のプレー。と同時に、日本人のサッカー観には、組織的かつ複数人が連動して相手を突き崩していくプレーが是とされる傾向がある。名古屋の振る舞いは、その美学に反していた。それが、「つまらない試合をして勝っている」と後ろ指をさされる理由だった。

リアリストの顔を見せたピクシー。

 ある意味、反動が大きかったことも関係していた。2008年、ピクシーが監督として名古屋に舞い戻ってきたシーズン。現役当時にアーセン・ベンゲル監督に師事し、コレクティブなサッカーの中で躍動したファンタジスタは、選手時代の美意識同様に、指揮官としても師の息吹を感じさせる機能美の高いチームを作った。

 DFからFWまでの3ラインが整然とし、コンパクトに統率された[4-4-2]。徹底されたゾーンディフェンスと、テンポよくパスをつなぎ好連係から仕掛けられていくサイド攻撃。Jリーグの中でも群を抜くモダンさだった。

 美意識の高さだけでなく、ピクシーにはそれ以上に譲れないことがあった。それは、勝者であること。勝ちたいという強い欲。選手としては、名古屋でリーグ制覇を成し遂げられなかった。万年中位をさまようクラブを変革するために、満を持して自分がここに呼ばれたことも理解していた。

 勝つために。ピクシーは徐々に、もう1つの表情であるリアリストな性格を強めていった。闘莉王を筆頭に、力ずくでも敵を黙らせることができるタレントを揃えていく。戦い方もどんどん緻密さから大胆さが際立つようになった。布陣は、選手の距離間が保たれ連動性が促進される[4-4-2]から、より局面で個人の速さやパワーの差を生み出せる[4-3-3]に。

 現実的に勝利をつかみ取りに行った。その結果が、2010年の優勝だった。

ダニエルソンの横に中村直志。

 話を2011年に戻すと、15試合負けなしの時期を含め、前年から続く[4-3-3]のシステムがうまく機能していたかといえば、実は違った。ダニルソンのプレー範囲の広さや、闘莉王や増川の強さ。阿部の高精度のサイドチェンジに、玉田のテクニック、ケネディの高さ。そして金崎の馬力や永井のスピードと、個人の一芸で間延びした布陣の弱点を補っていたところは否めなかった。

 広大なスペースを敵に与え、味方同士の距離も遠い。組織的観点からして、機能不全と隣り合わせの状態だった。

 そこでピクシーが、変化を加えた。あるトレーニングで、アンカーのポジションに入っていたダニルソンの横に中村を入れ、ボランチを2枚にした。左右のサイドハーフには左に右利きの小川、右に左利きの藤本を配置。そして前線は玉田が下がり気味で自由に動き、頂点にケネディ。システムを2008年時の[4-4-2]に近い[4-2-3-1]の形にした。
当時の選手たちの反響を、今も克明に覚えている。

「この形はコンパクトに戦えるし、連動性が高まる。何より、守備も攻撃も人が近いからやりやすい」(玉田)

 一際、輝きを取り戻した選手がいる。3年前に大活躍した小川。2009年からはピクシーがかつて背負った10番をつける看板選手になったが、優勝した2010年は全試合に出場するも先発は19試合。メインキャストからは外れていた。

 独力で局面打開が求められた[4-3-3]で、小川は窮屈な思いをした。常々本人も「僕は速さもドリブルも強さも、突出したものはない」と認める。ではなぜ、2008年に得点、アシストともに2桁を記録したのか。それは一にも二にも、当時は連動したチーム戦術の中で最高に生きる選手だったからである。狭いエリアで素早く動き、また中間ポジションから瞬時に敵の背中を取るのがうまい。止める、蹴るという基本技術も安定している。迷路のような相手守備網を、パスを出して、動いて、また受けて、くぐり抜ける。

 連続性のある戦術が存在する時に、小川は光を放った。

小川が輝けば、好循環が生まれる。

 2011年シーズン中盤以降、ピクシーは試合途中に[4-3-3]から[4-2-3-1]に変えていくベンチワークが目立っていった。そして優勝争いの追い込みがかかる終盤戦には、ついに試合スタートから採用していった。

 ダニルソンと中村が、強度と動きの量で中盤の守備を締める。トップ下で自由を得た玉田と、清水時代と同様にサイドから流動的に動ける位置に移った藤本のレフティコンビは、阿吽の呼吸で技術を呼応させていく。今も互いに「ベストコンビ」と称え合う、翼くん&岬くん的マッチングだった。

 圧倒的高さが武器のケネディ。しかし彼のプレーを継続的に見ていた人ならわかるだろう。本人が明かす。

「僕は大きいけど、大好きなのは足元のプレー。できれば縦パスはグラウンダーでほしいよね(笑)」

 味方の動きが流動的で距離も近くなったことで、柔らかいボールキープで攻撃の基準点を担った。空陸両用のポストマンが冴えに冴えた。

 そこに小川が加わる。水を得た魚のごとく、背番号10がチームの中で有機的に働くようになった。玉田と藤本の連係に加わり、機動力でさらに敵を撹乱させる。左サイドバックの阿部との連係も戻った。ピクシー率いる名古屋において、彼の躍進は成功の代名詞でもあった。小川はチームのバロメーター。輝けば、組織が好循環していた証拠だった。

 さらに交代で出てくるのは、永井と金崎。疲れた攻撃陣に替わり後半途中で、果敢なアタッカーがジョーカーとして登場する。なんとも強烈なダメ押しだった。

ピクシーも楢崎も闘莉王も。

 終わってみれば、夏の7連勝に次ぐ6連勝を飾りシーズンを締めくくった。結果は、勝ち点1差の2位。最終節、苦手の敵地・アルビレックス新潟戦で玉田が直接FKを沈めた。しかし同時刻で行われていた埼玉スタジアムでの浦和レッズ戦で柏が勝利し、王座を譲った。

 昨年、ピクシーにインタビューした際も、この2011年の話になった。

「確かに2010年は素晴らしい記憶だった。ただこれだけは言いたい。2011年こそが、我々が優勝すべきだった! と。あのシーズンのチームこそが最頂点の実力だった」

 選手たちもまた、事あるごとに当時のチームへの思いを述べている。

「しぶとく勝ったのは2010年。でも手応えも結果も内容も、ベストな戦いは2011年」(楢崎)

「あのシーズンこそ、勝ちたかった。勝たなきゃいけなかった。最後はパスをしっかりつないで、相手も崩すまでになった。あそこで勝っていたら、その後の名古屋もまた違った道を辿ったはず」(闘莉王)

 ファンからすれば、ピクシーが率いた時代は甘美な思い出ばかりかもしれない。切り取るシーンや瞬間も、人それぞれだと思う。ただ、タフでいながら美しかったのはいつかと問われれば、あの時だろう。戦った監督も選手たちも、皆が自分たちは本物だったと信じている、あの頃。

 2011年の名古屋グランパス。王者ではないが、強く華麗で、魅力的だった。

(「ミックスゾーンの行間」西川結城 = 文)