広島が最後に日本シリーズに出場した1991年、80試合以上で4番を任されたのが、現在、四国アイランドリーグplusの香川オリーブガイナーズを率いる西田真二監督だ。現在も広島に居を構え、広島に大いなる愛着を持つ西田氏に、広島が優勝した要因と新…

広島が最後に日本シリーズに出場した1991年、80試合以上で4番を任されたのが、現在、四国アイランドリーグplusの香川オリーブガイナーズを率いる西田真二監督だ。現在も広島に居を構え、広島に大いなる愛着を持つ西田氏に、広島が優勝した要因と新井貴浩選手との出会いなどについて語ってもらった。

■1991年リーグ優勝時の4番・西田真二氏が振り返る新井との出会い

 今季25年ぶりにリーグ優勝を決めた広島東洋カープ。2位以下を寄せ付けない圧倒的な快進撃でペナントレース優勝を果たした。次はクライマックスシリーズのファイナルステージで勝利し、1984年以来32年ぶりの日本一を目指す。広島が最後に日本シリーズに出場した1991年、80試合以上で4番を任されたのが、現在、四国アイランドリーグplusの香川オリーブガイナーズを率いる西田真二監督だ。優勝した年は、打率.289ながら4割を超える出塁率(.406)で「つなぐ4番」として大きく貢献。現役引退後は、達川光男監督の下で1軍打撃コーチに就任した1999年に、入団1年目だった新井貴浩の才能を見出した。現在も広島に居を構え、広島に大いなる愛着を持つ西田氏に、広島が優勝した要因と新井貴浩選手との出会いなどについて語ってもらった。

――1991年以来25年ぶりのリーグ優勝ということで、広島は大いに盛り上がっています。

「まあまあ久しぶりということで、(2009年に)球場も新しく変わって、やはり活気づいていますね。カープのスカウティングを含めた戦略が、ようやくここまで来たっていう感じかな。やはり感じるのは、黒田(博樹)と新井(貴浩)が『絶対に勝ちたい』っていう気持ちが強かったこと。その先輩の背中を見ながら、若手もよくやった」

――シーズンを通じて、とにかく投打のかみ合った強さが光りましたね。

「交流戦の終盤から11連勝したあたり(6月14日西武戦から11連勝)が、1つの分かれ目だったと思うんですよ。その後は、8月に一度ジャイアンツに4.5ゲーム差くらいまで詰め寄られたけれど、そこからまた突き放した。(8月24日に)マジック20が点灯してから、また強かった。大まかに言えば、カープの勢いに各チームが圧倒されたわけだけど、タイガースにしても、この前、金本(知憲)監督と話した時は、一番悔しそうな顔してましたけどね」

――機動力を生かした、他球団とはひと味違ったスタイルが、広島の魅力だと思います。

「ここまで来るのに、かなり時間は掛かっている。カープは自前で選手を育ててきた。その成果が出たっていうことですよね。総決算って言ったらおかしいな。これは続けていかないといけないから(笑)。でも、素晴らしいってことですよ。脂の乗った選手が、1番(田中広輔)2番(菊池涼介)3番(丸佳浩)と、自前で揃っている。それに鈴木誠也。控え選手のバランスもいい。投打のバランスもいい。黒田や新井といったベテランも含め、選手たちが本当に1つの目標に向かって戦った。優勝したいっていう気持ちが、球団、プレーヤー、ファンの皆さん、みんな1つになった。これが結果につながってきたんじゃないかな」

■「いい意味で予想当たらないから野球は面白い」

――鈴木誠也選手は大きく開花した年になりました。

「2012年のドラフトで、誠也は2位でしょ? 1位は高橋(大樹)だった。誠也より高橋の方が期待されていたわけですよね。去年から頭角を現してきたけど、今年は90打点以上、20本塁打以上、打率3割を超えるって、誰がこれを予想しました? どの評論家もしてないでしょ。だから、野球は面白い。いい意味で当たらない活躍があるのが面白いんですよね。本当にいい選手に成長しましたよ。来年これを続けられるかは本人次第だな」

――若手を使いながら育てた首脳陣の手腕もありますね。

「日本は指導者を育てるシステムが充実していない中、緒方(孝市)監督は、引退してから1度もユニフォームを脱がずに学ぶことができた。1軍の守備走塁コーチをしたり、打撃コーチをしたり。指導者として経験を積めたことは大きい。高(信二)ヘッドコーチが帰ってきて、コーチ陣はみんな同じ釜の飯を食った仲間になった。コミュニケーションをしっかり取れる仲間で、みんなが緒方監督を信頼している。優勝という目標に向かって、役割を全うするコーチ陣のベンチワークというかチームワーク。これも優勝の大きな要因の一つに付け加えたいですね」

――1991年以来の優勝に大いに沸く広島ですが、その25年前にリーグ優勝した時は、西田さんが4番打者でした。

「いや、その話にもよくなるんですけど、当時は小早川(毅彦)や江藤(智)も出始めだったし、外国人選手もアレンがいたけど、なかなか機能しなかった。その中で限られた資金でやっていたカープの苦肉の策っていうかな(笑)。1990年に初めて4番を打たせてもらった経験があるんですよ。それもあってか、翌年には80試合近くで4番を任されて、ホームラン数は少なくて打点はそこそこ、でも四死球は64で出塁率は4割を超えていた。“つなぐ4番”ですよ。

(絶対的な)4番がいないという中での選択肢。次につなげるっていう意識を続けた結果が優勝に結びついて、まずまずの達成感はあるんじゃないかな。当時は投手陣が非常によかったので、1点を取れば僅差でゲームを勝ちきることができたんですよ。今年のカープはぶっちぎりで優勝したけど、あの年は(中日)ドラゴンズが監督だった星野(仙一)さんが退団するんじゃないかって話になって、8月の終わりくらいから急に上がってきた。その中で3ゲーム差で勝ったんだけどね」

■西田氏が評価する当時のドラフト、「まずは新井を指名したカープがすごかった」

――今年は4番に新井貴浩選手が座ることも多かった広島ですが、新井選手が新人当時、その才能を見抜いていたのが西田さんだったと聞きました。

「1999年に達川(光男)さんが監督になった時、大下(剛史)さんがヘッドコーチで、僕が打撃コーチだったんですよ。その時に、駒澤大学でプロに行きたいヤツがいると。性格がすごくよくて、体力もある。それが新井だったんですよ。ただ、まずは新井を(ドラフトで)指名したカープがすごかったね。

 新井と出会って気付いたのは、バットを振れる力。『こいつ将来よくなるな』ってビックリしたのは、入団1年目か2年目に、甲子園で右中間にホームランを打ったんですよ。あそこは右中間からアゲインストの風が吹く。そこに力強いホームランを打ったのを見て、『こいつ江藤の後釜になるんじゃないかな』って思った。それから鍛えられながら、弱音も吐かずによくやりましたよ。愚痴はどこかで言ってると思うんですけど(笑)」

――達川監督(当時)が新井選手を2軍に落とそうとした時、それを止めたのが打撃コーチだった西田さんだったとか。

「それは大下さんが言ってることで(笑)。僕はあまり覚えてなかったんですよ。インターネットに出てた記事を読んで、そんなこと言うたかなって(笑)。ミーティングの時に、多少そういう話はあったと思うんですよ。ただ言えることは、新井の頑張る姿を見ていたからこそ、僕の提案を達川監督なり大下ヘッドコーチなりが受け入れてくれた。僕は平コーチで、2人が上司なんだから、上司が落とすぞって言ったら終わり。その意見を聞き入れてくれたのがありがたかった。

 僕がよく覚えているのは2年目のこと。新井も一番覚えてるんと違うかな。ある日、神宮球場で新井が点に絡むエラーをしたんです。だから、その後に打席が回ってきた時、達川さんが代打を出そうと言った。それで僕が相談を受けたんだけど、『監督、ここは新井でいきましょう』って推したんですよ。そしたら、その打席で新井は逆転3ランを打ちよった。これはね、そこで結果を出せた新井が素晴らしい。でも、僕も内心『監督、見ましたか? へへへ』って思ったけどね(笑)。

 1軍はミスをしても、それを挽回する結果を出せばいい。結果を出せば、しゃあないなってなるんですよ。もちろん、人間性もありますけどね。新井と出会って気が付いたのは、珍しく性格が純粋なんですよ。あの人から愛される性格は、本当に独特だと思う。野球にも純粋に取り組むしね。ちょっとお茶目なところもあるんですよ。目がよく動くとかね(笑)。フリーエージェントになって、アニキと慕った金本を追ってタイガースに行った。タイガースでプレーする難しさもあったと思うけど、その中で選手会長をやったり、人間が大きくたくましくなった。それからカープに帰ってきて、結果を残してね。ここまでやってこれたのも、新井の人柄だったり、人を惹きつける能力も大きな要因。身につけようと思ってつけられる能力じゃないからね」

■黒田や新井は「本当にカープに恩返ししたい、優勝したいっていう思いだけ」

――「広島で優勝したい」という新井選手や黒田選手の思いに、若手選手たちも大きな影響を受けたんでしょうね。

「そうでしょうね。タイガースでそこそこだったのが、カープの水が合うんでしょう。去年帰ってきて、結果を残している。今年は『打点王はいらない』って、最後はあまり試合に出ないでしょ。タイトルよりも純粋に優勝したかったってことですよ。黒田もそう。あそこまでの選手になって、あそこまで稼ぐと、本当にカープに恩返ししたい、優勝したいっていう思いだけ。その2人から若い選手たちは刺激を受けるだろうし、2人もまた若い選手たちから刺激を受けただろうしね」

――黒田選手が投げた試合で優勝を決めたっていうのも、また1つの劇的なストーリーでした。

「黒田はやりづらかったと思いますよ。アメリカから帰って来る時に、勝手にマスコミに“男気”ってつけられて(笑)。それでも淡々と黙々と投げ続けた彼に、人間としての大きさを感じる。名門ドジャースとヤンキースでプレーした訳ですよ。その中で成績を残した、その我慢強さっていうのは、アメリカでプレーした人にしか分からないもんでしょうね。広島は暑いから、日本にいる時から黒田も大変だったかもしれないけど、アメリカは場所場所で気温も違えば時差もある。自分が先発しない試合でもベンチに入らなくちゃいけない。投手はもちろん野手も大変ですよ」

――これからクライマックスシリーズが始まり、広島は1991年当時には届かなかった日本一を目指して戦うことになります。

「カープはここからが面白いですよ。1、2、3番が当分は固定できるからね。我々の時代は、今みたいにいつでも満員のお客さんの前で試合をしているわけじゃなかった。勝てなかったら、お客さんが見に来てくれない時代。だけど、今は利便性のいい新球場もできて、カープ女子をはじめたくさんのお客さんが応援してくれている。マーケティング戦略も含め、地域密着型の素晴らしい球団になりましたよ。広島はもちろん全国のカープ・ファンのみなさんに喜んでもらえるように頑張ってもらいたいと思いますね」