桜庭和志「グレイシー一族撃破」から20年(1) 90分に渡る死闘として語り継がれる「伝説の桜庭和志vsホイス・グレイシー戦」から、今年の5月1日で20年が経つ。ホイラー・グレイシーの腕を完全に極めた桜庭和志 最近では新日本プロレスやプロ…
桜庭和志「グレイシー一族撃破」から20年(1)
90分に渡る死闘として語り継がれる「伝説の桜庭和志vsホイス・グレイシー戦」から、今年の5月1日で20年が経つ。
ホイラー・グレイシーの腕を完全に極めた桜庭和志
最近では新日本プロレスやプロレスリング・ノアに、スポット参戦する桜庭和志しか知らないファンもいるだろう。そういうファンには、現在DDTプロレスリングにレギュラー参戦している青木真也と同じように、桜庭は「プロレスに挑戦している格闘家」に映っているかもしれない。
だが、実は順番が逆なのだ。
桜庭はUWFインターナショナル(以下:Uインター)というプロレス団体でデビューしたプロレスラーだ。総合格闘技の礎(いしずえ)となったプロレス団体「UWF」から派生したUインターは、高田延彦という絶対的エースを擁した”格闘技色の強いプロレス団体”だった。
そのなかで桜庭は、派手さはない職人タイプのイチ若手選手だった。
そんな桜庭が最初に注目を集めたのは、1997年12月21日に横浜アリーナで開催された『UFCジャパン』だろう。
UFCは今や、世界最高峰の総合格闘技イベントである。だが、この『UFCジャパン』はルールや階級が整備された現在のMMA(ミックスド・マーシャル・アーツ)と違い、基本的にバーリトゥード(何でもあり)だった頃のUFCが初めて開催した日本大会だった。
この大会の約2カ月前の10月11日、東京ドームで『PRIDE.1』が開催され、Uインターの絶対的エースであり、当時プロレス界最強と言われていた高田が、ヒクソン・グレイシーに完敗を喫していた。
全プロレスファンがショックを受け、「バーリトゥードでプロレスラーは勝てない」というイメージが広まりつつあった。そんななか、桜庭はUFCジャパンでカーウソン・グレイシー柔術黒帯のマーカス・コナン・シウヴェイラと対戦する。
一度はレフェリーストップ負けという裁定が下されたが、これは”誤審”だったと認められ、再試合の結果、腕ひしぎ十字固めで見事な一本勝ち。試合後、桜庭はマイクで「プロレスラーは、本当は強いんです!」と言い放ち、プロレスファンの溜飲を一気に下げてみせた。
その後、所属する団体が活動休止したため、桜庭は高田が設立した高田道場所属となり、PRIDEに参戦。桜庭はPRIDEでも次々に外国人格闘家を撃破し、1999年11月21日の『PRIDE.8』でヒクソンの弟であるホイラー・グレイシーと対戦することになる。
当時85kgだった桜庭は、69kgのホイラーとの対戦は乗り気ではなかった。だが、ホイラーのゴリ押しで対戦が決定する。
そのグレイシー特有の強引さに、桜庭は腹を立てた。結果、試合は終始ホイラーを圧倒したうえ、ガッチリとチキンウイング・アームロックを極めてみせる。これ以上やったら腕が折れてしまうというところで、レフェリーが試合をストップした。
階級が違うとはいえ、あのグレイシーにプロレスラーである桜庭が完勝したのだから、大事件である。しかも桜庭は、またしても試合後のマイクで「お兄さん、次はぼくと勝負してください」と、高田に勝ったヒクソンに対戦要求したのだ。
ホイラーは試合後「あの技は極まっていなかった。俺はギブアップしていない」と抗議していたが、桜庭はそんなものはお構いなし。マイクアピールで観客の喝采を浴び、その場を締めてしまうというのは、何ともプロレスラーらしいではないか。
私はこのあたりから、桜庭和志という選手が俄然、気になり出していた。
その優しそうな顔つき、飄々とした佇まいからは、失礼ながらとても強そうには見えない。だが、実際リングに上がると、すこぶる強い。しかも、緊張感が半端ないバーリトゥードの試合で、フットスタンプやモンゴリアンチョップをやってしまうのだから、何とも痛快だ。
ファイトスタイルもそうだが、桜庭は常に”お客さんが何を求めているのか”を意識している。
マイクアピールも「勝ててよかったです」とか「次もがんばります」で終わるのではなく、お客さんがワーッと盛り上がれたり、「次もまた見たい!」と思ってもらえるようなキラーワードが言えたりするのは、桜庭の才能であり、プロレスラーだということが大きい。
私は当時、小さな出版社で働いていたのだが、「そろそろ何か本になるような企画を出して」と社長から言われていた。しかし、一番得意ジャンルであるプロレスは人気低迷。そのなかで唯一の希望というか、うまくいけばものになるんじゃないかと感じたのが桜庭だった。
だが、ホイラーに勝利した頃の桜庭は、プロレス・格闘技ファンには認知されていたが、?田に比べると一般的な知名度はまだまだ低かった。それに、プロレスラーとしてIWGPチャンピオンになったことがあるとか、あの選手との一連の試合は名勝負数え唄と言われて伝説になったみたいな”実績”がなく、正直、本にするにはまだパンチ力不足だった。
それでも、桜庭の可能性をこの目で確かめようと、私は2000年1月30日に東京ドームで開催された『PRIDE GP 2000開幕戦』のチケットを購入。この大会は無差別級トーナメントの1回戦で、高田がヒクソンの弟であるホイス・グレイシーと、桜庭はパンクラスの常連外国人選手だったガイ・メッツァーと対戦した。
桜庭vsメッツァーは、桜庭がタックルを仕掛けてもメッツァーはすぐに立ち上がり、なかなかグラウンドの展開にならない、いわゆる”噛み合わない”試合になった。1ラウンド終了時点での判定はドロー。すると、メッツァーが次のラウンドを拒否して退場してしまったため、試合放棄により桜庭の勝利という何とも後味の悪い試合に終わった。
さらに高田も、日本初登場のホイス相手に積極的な攻撃に出ることなく、膠着状態が続いた末に判定負け。観客からするとフラストレーションが溜まる結果となってしまった。
しかし、この大会を会場で観戦していて感じたのは、「桜庭だったらホイスに勝てるんじゃないか」という期待感だった。
プロレスには”振り幅”を楽しむ魅力もある。メッツァー戦が消化不良だったからこそ、このフラストレーションを次の大会で一気に晴らしてくれるのでは……という、現場でしか感じられない空気を感じた私は、あることを決意して東京ドームをあとにした。
(第2回につづく)