記憶に残るF1ドライバー列伝(2)フェルナンド・アロンソ 2012年シーズン終盤のある日、フェラーリのホスピタリティユニットで食事をしていると、歩み寄ってきたフェルナンド・アロンソが言った。「今度、僕の両親の名前を漢字で書いてくれないか? …
記憶に残るF1ドライバー列伝(2)
フェルナンド・アロンソ
2012年シーズン終盤のある日、フェラーリのホスピタリティユニットで食事をしていると、歩み寄ってきたフェルナンド・アロンソが言った。
「今度、僕の両親の名前を漢字で書いてくれないか? これがその名前なんだ」
低迷期のフェラーリで奮闘していた頃のアロンソ
そう言って照れくさそうに手渡したメモ用紙には、ふたりの名前が書かれていた。誕生日プレゼントに名前を漢字で書いて何かをプレゼントしたいということだった。
フェラーリに来て3年目のこの年は、最もタイトル争いに近づいていた。
普段の取材では、レーシングドライバーとしての絶対的な自信を見せ、数字を交えながらレースのことを事細かに語ってみせる。すでにそれだけの風格が、彼にはあった。
しかし、F1ドライバーというステージを一歩降りれば、スペイン人なのに陽気というよりもシャイなところが、本来の彼の姿だった。
『葉隠』を読んで武士道を知り、日本の侍文化が好きになったというのは、この頃だ。
刀が折れても手で戦い、手を切り落とされようとも肩、口でも戦う。つまり、最後の最後まで絶対にあきらめないという姿勢が、道具や体制では劣るフェラーリで王者レッドブルと戦う彼の心を支えていた。
日本との関係は、日本企業の大きなサポートを受けていたルノー時代からであり、小さなフィギュアを「トミタ」と名付けて世界各地へ連れて行って写真を撮る、なんていうこともしていた。
日本に対するそんな親しみや尊敬の念が、両親の名前を漢字でプレゼントしたいという行動に表われていた。
低迷期にあったフェラーリに加入し、マシンとチーム力以上の速さを引き出してタイトル争いまで持っていく彼の才能と努力は輝いていたし、ファンにとっても取材者である我々にとっても魅力的だった。その背景に、日本の心を持っていてくれたことも、またうれしかった。
しかし、翌年以降のフェラーリは経営陣とチーム首脳が迷走して成績が低迷。アロンソ自身もそれを何とかしようと政治的な言動を取るようになると、2014年にはいよいよチーム内に居場所がなくなった。
そして10月にはセバスチャン・ベッテルが電撃的にフェラーリとの契約を決め、アロンソはベッテルが交渉していたマクラーレンと契約し、マクラーレン・ホンダで再起を誓うことになった。
「僕はフェラーリに5年間いて、あと2年の契約を残していた。だから、フェラーリにいようと思えば、残ることだってできた。でも、僕はホンダが復帰すると知って、もう一度タイトルを獲るチャンスだと思ったんだ。
フェラーリでは5年間で、3度もランキング2位に終わった。だから、もう一度チャンピオンになれる可能性があるとしたら、ホンダとともに戦うしかないと思ったんだ。
僕が子どもの頃から、マクラーレン・ホンダは父の夢であり、家族の夢だった。今33歳になって、このマクラーレン・ホンダの復活に加わらない理由はないと思ったよ」
その言葉に、嘘偽りはなかったと思う。
初めてのテストを終えたこの時点ですでに、マクラーレン・ホンダの船出が厳しいものになることは明白だった。アロンソ自身もそのことをはっきりと言及し、ともに努力していくつもりだと語っていた。
「長期的な目標は、チャンピオンシップを勝ち獲ることだ。そのために、僕はここにいるんだ。ただ、それにどれだけの時間がかかるのかはわからない。
すべての問題を解決するのにかかるのは、2カ月かもしれないし、6カ月かもしれないし、1年半かもしれない。でも、遅かれ速かれ、僕らはチャンピオンシップを勝ち獲る。僕は100%確信しているし、できるだけ早くそれを成し遂げるつもりだ」
クラッシュの影響で初戦オーストラリアGPを欠場し、アロンソにとってのマクラーレン・ホンダでの初戦は第2戦マレーシアGPになった。
路面温度が60度に達しようかという灼熱のセパンで、アロンソはマクラーレンのエンジニアたちとコースを歩き、そこにホンダの新井康久総責任者も加わった。
ルノーで2度の王者となり(2005年、2006年)、すでにベテランの域に達していたアロンソにとっては、久しく行なっていなかった習慣。その姿だけを見ても、「ともに歩いて行く」という気概が感じられた。
しかし、現実はアロンソが想像していたよりも格段に厳しかった。問題を解決するのは2カ月や6カ月ではなく、10月の日本GPではフラストレーションのあまり「GP2エンジン」と不満をぶちまけた無線がテレビ放送に乗ってしまった。
「もちろん、フラストレーションを感じているよ。ストレートであんな抜かれ方をすればね。コーナーをどれだけ完璧に走ったとしても、ライバルがブレーキングを失敗してラインを外しているのがミラーで見えていても、ストレートでタイムを失って、あっという間にサイドバイサイドになって簡単に抜かれてしまうんだからね。これじゃあ、誰とも戦えない」
当初はそれがホンダへの批判集中へとつながったが、3年間のマクラーレンとホンダの提携のなかで、次第にマクラーレン側の能力不足も明らかになり、それがアロンソの立場を苦しいものにした。
「私はあらゆるドライバーにプロフェッショナリズムを保持してもらいたいし、あのような言動は許すことはできない。彼はコクピットのなかで戦ってフラストレーションを感じていただろうが、あれは技術的なコミュニケーションを取るうえで、建設的なやり方とは言えなかった。
いずれにしても、この件については我々マネジメント陣営も含めて、チーム内で話し合うべきことだ。メディアに乗せるような話ではない」
ロン・デニスはそう叱責したが、彼も株主からチームを追われ、マクラーレンの体制自体がさらに迷走していった。
「今年は車体のほうがダメだったけど、来年は絶対に、ともに表彰台を獲ろう」
トークン制(※)の縛りのなかで大きな開発を進められたなかったホンダのパワーユニットが一定の進化を果たした2016年はランキング6位に浮上し、シーズン末にはマクラーレンのエンジニアがそう誓うほどのところまで来た。
※パワーユニットの信頼性に問題があった場合、FIAに認められれば改良が許されるが、性能が向上するような改良・開発は認められていない。ただし、「トークン」と呼ばれるポイント制による特例開発だけが認められている。各メーカーは与えられた「トークン」の範囲内で開発箇所を選ぶことができる。
エンジニア同士はいがみ合うことなどなく、マクラーレンの上級エンジニアもHRD Sakuraを頻繁に訪れて共同開発が進んでいた。
しかし、2017年はホンダが将来性を見据えてコンセプトを大幅に変更したことでトラブルが相次ぎ、両者の関係は険悪になっていった。
開幕前の時点ですでにマクラーレン内では、シーズン中にメルセデスAMG製パワーユニットに載せ換えた設計図が作成されていたほどだった。この状況では、お互いにマシンパッケージとしての改善すらうまくいくわけがない。
「コーナーではすごくコンペティティブだと感じられるけど、ストレートで2.5秒や3秒も失ってしまう」
「300メートルも後ろにいたクルマに、ストレート1本で追いつかれてしまった」
問題だったのは、アロンソ自身も真実とは言えない大袈裟な言葉を並べ立ててしまったことだ。
さらには、「いつもよりパワーが低いと感じたから、エンジンをセーブするためにピットに戻った」といってリタイアしてしまったり、フリー走行中のトラブルを受けてホテルに戻ってしまったりと、行動もエスカレートしてしまった。
マクラーレン・ホンダのタッグ結成から2年が経ち、まだ思うようにレースができない彼のフラストレーションは痛いほどよくわかった。
何よりも彼のフラストレーションとなっていたのは、自分自身としては円熟期を迎え、レーシングドライバーとして最高の状態にあるその瞬間を、無駄にしければならないという事実だった。
「僕はとてもいいかたちで身体の準備を整えることができたし、キャリアでも最高のドライビングができていると感じている。だけど、それで1ポイントを争っているんだからね。とてもガッカリしているよ。
僕自身は勝つ準備ができている。でも、僕らはチームとしてその準備ができていない。僕自身としてはやれるだけのことはやってきて、最高のドライビングをしているから、あとはもうチームの問題だよ」
自分レースキャリアを台無しにされた。僕の力はこんなものじゃない。当時の彼は、別の言葉でそう訴え続けていた。
しかし、マクラーレン・ホンダに加わると決めたその時から、彼自身もその「チーム」の一部だったはずだ。うまくいかない原因を自分以外のところに求めてしまえば、それ以上の進歩はない。
最後の最後まであきらめずに戦うという武士道の精神は、忘れ去られてしまった。
苦楽をともにして歩いて行くという、あの頃の姿勢も失われてしまった。
翌年、ルノーに載せ換えて車体性能の実態がわかった瞬間、アロンソはその代償を支払うことになってしまい、今もそれは続いている。
レーシングドライバーとしての腕は申し分ない。それは彼自身が声高に叫ばずとも、誰もが認めるところだ。
もう一度、かつてのように純粋にレースだけに向き合い、武士道の精神で耐えて戦い抜けば、彼のキャリアに再び光が差す瞬間は訪れるはずだ。
【profile】
フェルナンド・アロンソ
1981年7月29日生まれ、スペイン・オビエド出身。2001年、ミナルディから開幕戦オーストラリアGPでF1デビュー。19歳217日の年齢は当時史上3番目の若さ。2003年からルノーのシートを得て、2005年と2006年に王座獲得。フェラーリへの移籍などを経て、2015年からマクラーレン・ホンダのマシンを駆った。昨年はトヨタのマシンでル・マン24時間レースを連覇。171cm、68kg。