記憶に残るF1ドライバー列伝(1)小林可夢偉 2009年9月27日、第14戦シンガポールGPの決勝が終わった深夜のピットガレージ前で、小林可夢偉は浮かない顔をしていた。 ティモ・グロックが2位表彰台を獲得し、トヨタF1チームにとっては第4戦…

記憶に残るF1ドライバー列伝(1)
小林可夢偉

 2009年9月27日、第14戦シンガポールGPの決勝が終わった深夜のピットガレージ前で、小林可夢偉は浮かない顔をしていた。

 ティモ・グロックが2位表彰台を獲得し、トヨタF1チームにとっては第4戦バーレーンGP以来の表彰台に沸き立ち、シャンパンを片手に記念撮影が行なわれていた。



トヨタ、ザウバー、ケータハムの3チームでF1を走った小林可夢偉

「撮影の間くらい、もっとうれしそうな顔をしたほうがいいんじゃない?」

 思わずそう声をかけたが、彼の表情は変わらなかった。

 2007年の末からずっとテストドライバーを務め、この年はオフに行なわれたGP2アジアでチャンピオンに輝いたものの、GP2本シリーズでは急遽決まった"可夢偉対策"とも言えるバラスト規定(体重の軽いドライバーにはコクピット前方にバラストを積むというもの)に苦戦を強いられてきた。

 そんな状況に置かれたレーシングドライバーとしては、他人の表彰台を笑顔で祝う気になれないのも当然だった。

 しかし、そのわずか4日後、可夢偉の運命は大きく動いた。

 シンガポールではしゃぎすぎたグロックが体調を崩し、金曜の朝になって急遽、可夢偉が第15戦日本GPの金曜フリー走行に起用されることになったのだ。

「可夢偉、今どこにいる?」

 新居章年テクニカルコーディネーション担当ディレクターから電話を受けた時、可夢偉はまだホテルにいたくらいだった。

 母国グランプリとはいえ、17歳からヨーロッパに渡った可夢偉にとって、鈴鹿は2度ほどしか走ったことがない不慣れなサーキットだった。しかも、あいにくのウエットコンディション。

 しかし、可夢偉は好走を見せ、チームから高い評価を得た。TF109はテストやシミュレーターで走り慣れていたマシンであったことも、可夢偉にとっては幸運だった。

 そして、体調不良を押して出場したグロックが予選で大きなクラッシュを喫して負傷し、なんと次の第16戦ブラジルGPで可夢偉がF1デビューを果たすことが決まった。

 そこで、ブラウンGPのジェンソン・バトンを向こうに回して堂々たる走りを見せ、ただならぬ新人という注目を集めることになった。

 バトンはそのブロックに不満を漏らしたが、タイトル争いがかかった相手とはいえ、同一周回であるからには譲る必要などないという走りをデビュー戦から見せたのも、小林可夢偉らしいところだった。

 ブラジルでは9位フィニッシュを果たし(当時は入賞圏外)、次の最終戦アブダビGPでは上位勢と同等の走りで6位入賞。

 実を言えば、この時点でトヨタがF1から撤退することはほぼ決まっていた。もし、可夢偉がこの2戦を走ることなくその時を迎えていれば、ザウバーやルノーから破格のオファーを受けて2010年からF1のレギュラーシートを獲得することもなかっただろう。

 驚くほどの幸運に恵まれたことも確かだが、そのチャンスにしっかりと結果を出し、未来を掴み取ったのは可夢偉自身の力だった。

 リザーブドライバーという立場に甘んじることなく、自分がレースをしたいという強い執念を持ち、いつそのチャンスが巡って来てもいいように準備をする。だからこそ可夢偉は、トヨタのF1撤退寸前という最後の最後に残されたほんのわずかなチャンスを掴み取って、F1の世界に飛び込むことができたのだ。

「偉大な夢を可能にする」という自身の名前に込められた意味を、可夢偉はよく知っている。

 夢は願うものではなく、自分の力で可能にするものだ。

 ザウバーで3年間を過ごし、2012年は時に上位を走る力のあるマシンを手にした。チームとしてもBMWが撤退し、ほぼゼロからの再スタートとなったなか、可夢偉がチームと一丸となってマシン作りを進めてきた。そのひとつの集大成とも言えるマシンがC31だった。

 エンジン排気管をリアカウルに装着し、コアンダ効果を利用してリアのダウンフォースを高めるシステムなど、C31にはトヨタの開発陣が研究開発を進めていたアイデアが盛り込まれていたという。スパ・フランコルシャンで可夢偉が予選2位に入るなど、路面がスムーズで安定した空力性能が発揮できるサーキットでは抜群の速さを見せた。

 だが、運の巡りは悪く、ギャンブル的な戦略が当たって次々と表彰台を獲得していくチームメイトのセルジオ・ペレスとは対照的に、可夢偉はどんなにがんばっても表彰台には手が届かなかった。

 それでも鈴鹿では、チームのマシンアップデートも成功し、戦略もうまくいき、可夢偉も一切のミスなく自分の限界ギリギリのドライビングですべてを引き出し、3位表彰台を獲得した。

 この年、ザウバーは4度の表彰台を獲得したが、上位勢の自滅やレース展開の幸運などに関係なく、実力で勝ち取ったのは、この日本GPの表彰台だけだったと言える。ここでも可夢偉は、自分の力で夢を可能にした。

 おりしもF1は、中団グループチームがドライバーの持ち込み資金に頼る時代に突入し、巨大スポンサーのバックアップを持たないドライバーにとっては極めて厳しい状況になっていた。可夢偉も例外ではなく、2013年はシートを獲得することができなかった。

 それでも、可夢偉はファンからの熱い支援を受け、その資金を元に2014年はケータハムのシートを得てF1にカムバックした。

 この経験が、可夢偉自身をさらに成長させたように感じられた。

 それまでは「結果さえ出せば文句はないだろう」という、よくも悪くもどこか独りよがりなところがあった。だが、自分ではなくF1ドライバーという肩書きに擦り寄っていた人々が去り、本心から支えてくれる人々の力でともに夢の続きへと挑戦できたことで、レーシングドライバーとしてだけではなく、人としての厚みも増した。

 財政難のケータハムでは思うようなレースはできなかった。しかし、それでもF1という世界に挑戦し、最後まで力を出し切ろうともがいた可夢偉の姿に心を打たれたファンは少なくなかったはずだ。

 小林可夢偉という人間は、日本人離れした感覚の持ち主だ。それゆえに、若い頃は"古き良きアスリート像"を求めるファンからは反感を買うこともあった。

 しかし、夢は与えられるものではなく、自分の力で実現するもの。それを体現し続けた可夢偉のキャリアは、いつしか多くの人を魅了し、ともに夢を見られる幸せを与えてくれた。

 F1を離れ、WECやスーパーフォーミュラで戦うようになった今も、そのスタイルは変わらない。簡単には勝つことができない環境のなかでも、夢のある走りを見せてくれる。そして日本のモータースポーツを盛り上げるべく、世界中を飛び回っている。

 あのシンガポールGPから、もう11年が経った。しかし、これから可夢偉がどんな夢を追いかけ、それを自らの力で可能にしようと挑戦する姿を見せてくれるのか、今も楽しみで仕方がない。

 小林可夢偉というのは、そういうドライバーだ。る。

【profile】
小林可夢偉(こばやし・かむい)
1986年9月13年生まれ、兵庫県尼崎市出身。2009年、トヨタから第16戦ブラジルGPでF1デビュー。日本人18人目のF1ドライバーとなる。2010年、ザウバーと契約。2012年の第15戦日本GPでは日本人3人目のF1GP表彰台を獲得する。1年のブランクののち、2014年はケータハムからF1復帰。昨年はスーパーフォーミュラや世界耐久選などで活躍。170cm、63kg。