欧州スター選手列伝極私的バロンドール(1)ロベルト・バッジョ(1993−94) 筆者がサッカーを始めた頃、ヒーローと言えば『キャプテン翼』の大空翼だった。おそらく、当時のサッカー少年たちのほとんどが、この天才小学生に憧憬の念を抱いていた…

欧州スター選手列伝
極私的バロンドール(1)
ロベルト・バッジョ(1993−94)

 筆者がサッカーを始めた頃、ヒーローと言えば『キャプテン翼』の大空翼だった。おそらく、当時のサッカー少年たちのほとんどが、この天才小学生に憧憬の念を抱いていただろう。



1994年ワールドカップのロベルト・バッジョ

 まだ、Jリーグがなかった時代である。日本代表も弱かった。もちろん、インターネットもDAZNもない。毎晩、ナイター中継が流れる野球とは違い、サッカーの情報に触れる機会はほとんどなく、だからこそ二次元の世界で空を飛ぶサッカー少年を憧れの対象とするほかなかったのだ。

 そんな時代の現実世界の楽しみは、全国高校サッカー選手権とトヨタカップだった。

 静岡県出身の筆者は、当時隆盛を極めた”サッカー王国”を代表する高校の戦いに一喜一憂し、何度も優勝を成し遂げた”地元のお兄さん”たちのプレーに心を躍らされたものだ。

 世界のサッカーに触れたのは、トヨタカップが最初だった。なかでも1989年、1990年と連覇を成し遂げたミランの強さは圧巻だった。

 キャプテン翼の影響からか、サッカーといえばブラジルというイメージが強かったが、南米勢を容赦なく叩き潰すミラン、とりわけオランダトリオ(ルート・フリット、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールト)のダイナミックなプレーには、鳥肌が立つほどの衝撃を覚えた。

 その頃はちょうど中学生だった。情報源は『週刊少年ジャンプ』からサッカー雑誌に代わり、新しい情報を手にするために貪るように読みふけった。

 ちなみに周りには老舗の「M誌」派が多かったが、天邪鬼な気質のある筆者は、どこかマニアックなイメージのあった「D誌」派だった。それから10数年後、「D誌」編集部にお世話になるとは、その頃は夢にも思わなかったのだが……。

 写真と活字が情報のすべての時代。トヨタカップ以外に映像を見ることはできなかったから、誌面からプレーのイメージを膨らませるほかなかった。

 そのなかで出会ったのが、何とも不思議なヘアスタイルのイタリア人だった。

 当時はユベントス(1990年〜1995年)に所属し、見た目は華奢で、白と黒のストライプのユニフォームは、明らかにサイズオーバーに見える。何よりもその後ろ髪! それでもボールを持つ立ち姿にはオーラが漂い、その表情も精悍。とうてい真似できないヘアスタイルも含め、とてつもなくかっこよく映った。

 そして、このイタリア人を形容する「ファンタジスタ」という言葉の響きが何ともハイセンスで、プレーは見たことなくとも、圧倒的なテクニシャンであることは容易に想像できた。

 その選手の名は、ロベルト・バッジョといった。

 それからは常にバッジョの記事を追い、ディアドラのスパイクも買った。さすがに髪型は真似できなかったけど、中学、高校とサッカーに没頭していた筆者にとっての唯一無二のアイドルとなっていた。

 そのバッジョのプレーを存分に堪能できたのが、1994年のアメリカ・ワールドカップだった。

 当時はNHKで放送されていたが、全試合が地上波ではなく、BSで放送された試合も多かった。大学進学のために上京したての頃である。当時住んでいたアパートには当然BSチューナーなどついてなく、ワールドカップを見るために自宅から1時間近くかかる友達の家まで通った。

 もちろん、お目当てはイタリアだ。しかし、優勝候補に挙げられながら、あの時のイタリアはグループステージで苦しんだ。伏兵アイルランドに敗れ、ノルウェーには勝ったものの、メキシコとはドロー。グループ3位でかろうじて決勝トーナメントに駒を進めた。

 バッジョも精彩を欠いていた。ケガ明けだということは知っていたが、前年にバロンドールを獲得したファンタジスタは、対戦相手から厳しい対応を受け、その能力をなかなか示すことができなかった。

 友だちには「バッジョ全然ダメじゃん。ディノのほうがいいわ」と言われる始末。ディノとは、ディノ・バッジョのこと。「もうひとりのバッジョ」とある種、蔑まれていたこちらのバッジョは、ノルウェー戦で決勝ゴールを決めており、たしかに貢献度は”本家”よりも高かったかもしれない。

 決勝トーナメント1回戦の相手は、ナイジェリアだった。

 アルゼンチンと同居したグループを首位通過した勢いが備わり、圧倒的なフィジカルと”ジェイジェイ”オコチャをはじめ、攻撃陣にタレントが揃う。当時のサッカー界では「アフリカの時代が間もなく来る」なんて力説する識者も数多くいたため、試合前から「イタリア危うし」の声は多かった。

 試合はイタリアが押し気味に進めたが、25分にCKから先制されると、1点を追う後半に切り札として途中からピッチに立ったジャンフランコ・ゾラが不可解な判定で退場となってしまう。頼みのバッジョもナイジェリアのパワフルな対応に苦戦し、後半途中からは足を伸ばすしぐさも見られた。

「これはもうダメだ」と絶望していたその時、奇跡は起きた。

 もちろん、奇跡を起こしたのはバッジョだ。88分、右サイドからのグラウンダークロスに走り込み、何とも優しいキックでナイジェリアゴールにボールを流し込んだのだ。

 絶体絶命のなかで訪れた最大のチャンス、普通であれば思い切り右足を振り抜いてしまうところだろう。しかし、バッジョのシュートはほとんど”パス”だった。

 あるいは、足の痛みからか思い切り蹴れなかっただけなのかもしれない。それでも味方とDFの間を狙った正確なコントロールキックにこそ、バッジョの神髄を見た。

 そこからのバッジョは、神がかっていた。延長では浮き球パスでPKを誘い、自らPKを蹴り込んで決勝ゴールをマーク(このシュートもポストの内側を狙った正確な一撃だった)。準々決勝のスペイン戦でも終了間際に決勝弾。準決勝のブルガリア戦では2ゴールを叩き込み、まさに孤軍奮闘の活躍でイタリアを決勝へと導くのだ。

 ブラジルとの決勝ではご存知のとおりの結末を迎えるが、この大会のバッジョはファンタジスタというよりも、強大な敵にひとりで立ち向かう「孤高の戦士」だった。何度も窮地を救い、最後の最後に、力尽きて倒れてしまう。華麗なプレーの陰にある、その悲劇性こそがバッジョという選手をより神格化させたことは間違いない。

 バッジョのプレーに魅了されてから8年後、D誌編集部に潜り込み、サッカーを書くことを生業とするようになった。この職業を目指したのは、1994年の夏に見たバッジョの姿に心を揺さぶられたからだ。プレーの裏側にある人間味にこそ、サッカーの魅力が詰まっている。それをバッジョが教えてくれた気がするからだ。

 心残りは、2004年に引退したバッジョのプレーを、結局一度も生で見る機会がなかったこと。こうして思い出話を書くことはできるが、生身のファンタジスタには、ついに触れることはできなかった。

 その後、ロナウド、ジダン、メッシ、クリロナと、時代ごとに世界を席巻するスーパースターたちが現れている。獲得タイトルやゴール数といった実績では、彼らのほうが上かもしれない。それでもバッジョを超える選手は、おそらく今後も現れることはないだろう。少なくとも、僕の中には。