日本、台湾、アメリカ、ドミニカ共和国。春キャンプやウィンターリーグも含めたら、実に4カ国9チームを渡り歩いた。何の因果で、流浪の野球人生を歩むことになったのか。人との出会いに導かれるまま、野球が好きという自分の気持ちに素直に従った結果だった…

日本、台湾、アメリカ、ドミニカ共和国。春キャンプやウィンターリーグも含めたら、実に4カ国9チームを渡り歩いた。何の因果で、流浪の野球人生を歩むことになったのか。人との出会いに導かれるまま、野球が好きという自分の気持ちに素直に従った結果だった。

■流浪の野球人生歩む正田樹の野球道

 日本、台湾、アメリカ、ドミニカ共和国。春キャンプやウィンターリーグも含めたら、実に4カ国9チームを渡り歩いた。何の因果で、流浪の野球人生を歩むことになったのか。人との出会いに導かれるまま、野球が好きという自分の気持ちに素直に従った結果だった。

 1999年、夏の甲子園。桐生第一高校を群馬県初の優勝チームに導いたエース正田樹(元日本ハム)は、34歳を迎えた今、四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツでマウンドに上がり続けている。甲子園優勝からドラフト1位。華やかな舞台を経験した左腕は、その後「いわゆる挫折」も経てもなお、現役としてユニフォームを着続ける。愛媛では、10歳以上も若いチームメートと共に勝利を目指して戦う毎日。どうして、そこまでして野球を続けるのか――。答えは簡単。「野球が好きだから」。そして、独立リーグにも「たまらない緊張感、真剣勝負があるから」だ。

 野球の魅力に取り憑かれた人は多いが、正田はかなり“重症”な部類に入る。もちろん、これは最大級の褒め言葉。一般的にも、ここまで夢中になれる何かと巡り会える人は、そう多くないだろう。「シーズンが終わりに近づくと、年齢のことを考えたり、次のことを考えたりもするんですけど、野球をプレーしている時は、正直それも忘れられる。いろいろなものを捨てられるっていうか、夢中になっていられるもの。それが野球なんですよね」と話す口調や表情は、驚くほど穏やかだ。

 野球では、酸いも甘いも経験した。甲子園で優勝した1999年、ドラフト1位指名で日本ハムに入団。1年目で1軍デビューを果たすと、2年目には新人王を獲得した。だが、3年目以降は思うような成績を残せず。2007年に阪神にトレードされたが、2年で戦力外通告を受け、ここから流浪の野球生活が始まる。台湾、ドミニカ共和国、アメリカ、新潟、ヤクルト、台湾、愛媛。国やリーグのレベルは違えど、野球は野球。「やっぱり、真剣勝負で味わう緊張感ってたまらないんですよね」と、屈託ない笑顔を見せる。

「どこでプレーするにしても自分次第。自分の持っているものをしっかり出せれば成績を残せるし、独立リーグでも調子が悪かったり、何か1つでも準備が不足すれば足元をすくわれる。万全であってもやられることもありますし。そういった意味で、どこでも変わらない真剣勝負がありますね」

■かつての栄光を微塵も感じさせない左腕、「人との出会いには恵まれた」

 いくら野球が好きで続けたくても、誰にも必要とされなければ諦めなければならない。だが、正田の場合、窮地に立たされた時に「ありがたいことに声が掛かって、道が開けてきたんですよね」という。2008年オフ、阪神から戦力外となり、12球団合同トライアウトを受けても獲得希望球団はなかった。そんな時、声を掛けてくれたのが、台湾の興農ブルズだ。今では百戦錬磨の風格さえ漂わせる正田だが、「最初に台湾に行った時は、環境の違いに正直ショックも受けました」と笑う。だが、この新たな一歩が大きかった。

「そこ(台湾)に行ったら、アメリカでやりたいって思いが出てきた。ドミニカに行ったけど次が決まらず、もう1年台湾でプレーしたら、今度は高津(臣吾・現ヤクルト投手コーチ)さんと出会った。ここからまた広がった感じ。アメリカに行った後で新潟(BCリーグ新潟アルビレックス)に入ったのも、高津さんが声を掛けて下さったから。

 愛媛に来たのも、実は加藤さん(博人投手コーチ)のおかげ。(2012~13年に)ヤクルトで当時2軍投手コーチだった加藤さんと一緒だった。ヤクルトを戦力外になってトライアウトを受けても声が掛からなかった時、愛媛でのコーチ就任が決まっていた加藤さんが『一緒に行くか?』って声を掛けてくれたんですよ。結局、台湾に行ったんですけど、またクビになった後で電話を掛けたら『じゃあ来い』って」

 捨てる神あれば拾う神あり。「ここまで途切れることなくやらせてもらっている。1人じゃ、ここまで来れなかったと思います。運であったり、人との出会いには恵まれたなっていうのはありますね」。かつての栄光は微塵も感じさせず、どこへ行っても野球に没頭し続ける正田の姿勢が、人を惹きつけるのかもしれない。

 今まで都合3回、NPB12球団合同トライアウトを受けた。3度目のトライアウトを受験したのは昨年。NPB復帰への思いが強いのかと思いきや、「いや、そういうつもりじゃないんですよ」と言う。

■大切なのは「自分がどうしたいか」、影響受けた2人の偉大な先輩とは

「正直、一番最初に日本を出た時から、そこはあまりこだわらなくなったかもしれないです。必要かなと感じた時に受けたら、たまたま3回だった。その中で(2012年に)ヤクルトに入ることができましたけど、そこだけを目指していたかというと、そうでもない。それよりも1日でも長く野球を続けたいっていう思いの方が強いかもしれないですね。そこ(NPB復帰)にこだわっていたら、もっと早く辞めていたかもしれません」

 もちろん、「まだ野球を続けるのか?」という声が耳に届くこともある。だが、それは「いろいろな人の評価」の1つで、大切なのは「自分がどうしたいか」だ。周囲の声に対して「鈍感なのかもしれないですね」と笑うが、それも野球選手にとっては大切な資質の1つ。加えて、プロ入りから17年を過ごす間に、過去にこだわらず前に進む力を身につけたようだ。

「甲子園で優勝したとか、ドラフトがどうだとか、そういうところにこだわりはなくて、何かを成し遂げたって感覚もないんですよね。でも、ポイントポイントで鼻を折られてますよ(笑)。いわゆる人が言う挫折も味わっている。僕はそこまで悲観的には捉えていないんですけど、それもまたよかったりするのかなって思いますね。

 いろいろな場所でプレーさせていただく中で、自分の立ち位置を客観的に見られるようになった。例えば、優勝するにしても、試合に勝つにしても、その事実はその瞬間に過去のものになって、また次が来ますから。そこに照準を合わせてやっているのがいいのかもしれないですし。自分でね『昔オレはこうだった』とか言うことに、あまりセンスは感じられない(笑)。もちろん、周りがそう(過去の評判で)見ることもある。でも、それは周りの評価ですから。それで気持ちよくなっていたら痛い目に遭う。そういうのも、痛い目に遭ったから分かるんでしょうけど」

「1日でも長く野球を続けたい」という正田の思いに、少なからず影響を与えているであろう人物が2人いる。前述の高津臣吾(ヤクルト投手コーチ)と山本昌(元中日)だ。

 台湾で出会った高津とは、新潟でもともにプレー。「高津さんのような超一流の選手が、台湾でも新潟でも、若い選手が多い中でプレーし続ける。その姿勢は勉強になりました」と振り返る。「技術的なことだけじゃなく、若手選手にどう接しているとか、自分に対してどう接してくれたとか、自然に影響を受けて、自分もまた自然にそうするようになりましたね」。

■山本昌から学んだこと、「自分が何歳まで続けたいか…」

 50歳まで現役を続けた山本昌とは、毎年オフになると鳥取にあるワールドウィングで一緒にトレーニングをした。「毎年1月に一緒に自主トレをさせていただいた。刺激は大きかったですね。野球に対する姿勢もそうだし、体のケアに関しても、すごく勉強になることばかり。自分が何歳まで現役を続けたいか? う~ん、50歳の人を見てますからね……(笑)」。

 あちらこちらを渡り歩き、気が付いたらプロ17年目のベテランになっていた。だが、今でも毎日が新しい発見の連続だ。例えば、愛媛でプレーし始めてから新球を解禁した。昨年はフォークを習得し、今年はカットボールを投げている。投手として、まだまだ歩みを止めるつもりはないが、指導者になることに漠然とした興味も抱き始めているという。

「こういう独立リーグで若い子とプレーしたり、自然と教えたり聞いたりっていうやりとりをしていると、漠然とですけど(指導者にも)興味を持ち始めたというのは正直ある。いろいろな経験をさせてもらいましたから(笑)。他人より若い子らより経験が多い分、伝えられるものは惜しまず出しますし、せっかく長くやってきましたから、何か伝えられるものはあるんじゃないかと思う。伝え方1つとっても、自分だったらこう伝えたいなって考える時もありますね」

 いくら流浪の野球人生を送っていても、毎年秋になると翌年の去就が決まらず、落ち着かない思いに駆られることがある。それでも変わらないのは「野球を続けたい」という思いだ。国内であれ海外であれ、プロであれ独立リーグであれ、「声が掛かれば、それはありがたいことです。それも縁ですからね」と、野球愛を引っさげて我が身一つで馳せ参じるつもりだ。

 矛盾して聞こえるかもしれないが、野球に関する落ち着かない思いを忘れられる唯一の方法は、野球をプレーすることだという。四国アイランドリーグplusで完全優勝した愛媛は、10月1日からBCリーグ総合優勝チームとグランドチャンピオンシップを戦う。目指すは独立リーグ日本一。たまらない緊張感、真剣勝負の中で全力を出し尽くした時、そこに自ずと道は開けてくるのかもしれない。