たとえグランドスラムでの激闘や優勝の栄冠を掴んだトーナメントではなくとも、記憶に深く刻まれる試合や大会、あるいはひとつのプレーなどがある。 2018年の楽天オープンは、そのような鮮明なる思い出のひとつだ。2018年楽天オープンの錦織圭の動…

 たとえグランドスラムでの激闘や優勝の栄冠を掴んだトーナメントではなくとも、記憶に深く刻まれる試合や大会、あるいはひとつのプレーなどがある。

 2018年の楽天オープンは、そのような鮮明なる思い出のひとつだ。



2018年楽天オープンの錦織圭の動きは際立っていた

 この大会で準優勝した錦織圭は、決勝までの勝ち上がりで、見る者を、そして対戦相手をも驚嘆させるプレーの数々を披露した。

 多くの場合、錦織のスーパープレーと言えば「エアK」の通り名を持つフォアのジャンピングショットや、相手の虚を突くドロップショットなどが挙げられるだろう。だが、この時の錦織で印象に残っているのは、広範なコートカバー能力と、誰もが決まったと思うであろう相手のショットを、ことごとく拾うディフェンス能力だった。

 2回戦のブノワ・ペール(フランス)戦では、試合の趨勢(すうせい)を左右しうる第2セットの競った場面で、快足を飛ばしてドロップショットに追いつき、相手コートのネット際に柔らかく打ち返してポイントをもぎ取った。

 3回戦では、超攻撃テニスの騎手とも言えるステファノス・チチパス(ギリシャ)の猛攻を、時にロブでしのぎ、時に攻守一体のカウンターで相手コートに叩き込んだ。

「圭は、誰よりも速かった。僕はこれまでトップ5の選手とも戦ってきた。ラファエル・ナダル(スペイン)やアレックス・デミノー(オーストラリア)を最も速いと思っていたが、圭はもっと速い」

 試合後のチチパスは、勝者を称える言葉しか持たなかった。

 錦織の武器が卓抜したスピードであることは、多くの対戦相手や識者たち、そして本人も認めるところである。ただそれは、単に”足が速い”ということとは少々、異なるようなのだ。

 実は、錦織は以前に「僕、短距離走のタイムは、そんなに速くはないです」と打ち明けたことがある。

 その事実を裏付けるかのようなデータも、3年前の全豪オープン時に公開されていた。それは、同大会のデータ解析チームが過去3年間(2014年〜2016年)の全豪オープンの試合をもとに、「3メートル以上のランニングスピードの最速値と平均値」を算出した順位である。

 同データによると、錦織の最速値は10位(1位はノバク・ジョコビッチ、2位はアンディ・マリー)。平均値の順位はすべて公示されていないが、最速値の上位10人中で9位にとどまっている。

 もちろん、100人以上の選手が参戦するグランドスラムで上位1割に入っているのだから、速いことに違いはない。ただ、多くのライバルやファンが抱くイメージの錦織は、おそらくはもっと上だろう。

 では、チチパスを呆然とさせ、多くの識者たちをして「最も速い選手のひとり」と言わせしめる錦織のスピードの秘密とは何だろうか?

「14歳の頃の圭は、本当に華奢で細身。でも、いろいろな動作をさせてもすごく上手だという印象は、今振り返ってもあります」

 16年前の日をそう回想するのは、IMGテニスアカデミーでストレングス&コンディショニングコーチとして活躍する中村豊である。

 現在もアカデミーでデニス・シャポバロフ(カナダ)らを指導する中村は、錦織を含む盛田正明テニスファンドの奨学生3人が渡米した約4カ月後に、その腕を買われてIMGアカデミーのトレーナーに就任。求められたのは、当時14〜15歳の少年たちの基礎パフォーマンスの強化であり、その3人のなかで最年少の錦織は「フィジカル的に弱い」との情報も得ていた。

 ところが実際に会って、ともにトレーニングを始めた時、中村の錦織に対する印象は事前に思っていたそれと大きく変わったという。

「驚いたのは、僕がアカデミーに入ってトレーニングを始めた1週間後か2週間後に圭を走らせた時、最初の頃とは全然違うスピードで走っていたことでした。まだ14歳でしたが、彼は目的意識があればやるし、それが見えないとがんばれないタイプかなと思ったことを覚えています」

 何のために、このトレーニングをやるのか……という因果関係や実際の成果が見えた時、彼のモチベーションは急激に高まり、能力も飛躍的に向上した。その特性は、テニス以外の球技をさせた時、あるいは日頃のトレーニングに少しのゲーム性を加えた時にも、如実に発揮されたという。

「たとえばサッカーをやった時、圭はいいポジションにいるんですよ、いつも。多くの少年たちはボールを追いたいし、ボールの近くにいたいと思うのですが、圭はゴールを決めるためにどこにいるべきかを見ている。点を獲るため、勝つためには何をしなくてはいけないか考えているので、彼の動きを見るのは面白かったです。

 あとは、僕が両手に持ったテニスボールをランダムに落とし、ワンバウンドでキャッチさせるトレーニングをした時にも、彼の鋭さは発揮されました。それは単にボールを目で追うだけでなく、僕の動きや癖も見抜き、予測して動いているんです。

 だから周りで見ている人には、必死さが伝わらなかったかもしれません。予測できない選手のほうが、がんばっているように映るんです。でも、圭は予測しているので、簡単にやっているように見える。

 そういうふうに、いろいろなことをやらせないとわからないこと、見えないことがあるんです。たしかに圭は、フィジカルの数値だけ見れば飛び抜けてはいなかったかもしれない。でも、予測能力などの数値では測れない点が飛び抜けていました」

 この「予測能力」こそが、冒頭で触れた驚異のドロップショット返しを可能せしめ、チチパスに「圧巻のスピード」と思わせたコートカバー能力の正体だろう。

 そして忘れてはならないのは、錦織がその高い予測能力に呼応しうるだけの肉体を、明確な「目的意識」を持って獲得してきたことだ。

 かつての錦織は、自身よりはるかにフィジカルで勝る選手と対戦するなかで、突出した予測能力やテニスの技術に身体が追いつかず、それがケガにつながっていたと中村は見る。それは少年時代のみならず、トップ10の地位を維持し、上位選手と死闘を重ねてきたこの約5年間も、常に同様のリスクとの戦いでもあったはずだ。

 トッププロに成長した今の錦織の姿を見ると、中村は「やっぱりフィジカルもしっかりしている。プレースタイルも、後ろで打つだけでなく、前にも出ていく。持っている能力を最大限に生かしてがんばっている」と感じ入るのだという。

 現在の錦織は、ロックダウンが発令された米国フロリダ州の自宅で、ツアー再開の日に向けトレーニングに励む日々を送っている。

 予測能力と、長い年月をかけ積み上げたフィジカルを融合して疾走し、対戦相手を驚愕させ見る者を魅了する、あのスーパープレーを再び披露する瞬間に向けて——。