追憶の欧州スタジアム紀行(1)ワンダ・メトロポリターノ(マドリード) 2017-18シーズンからアトレティコ・マドリードがホームスタジアムとして使用しているUEFA認定のカテゴリー4(旧5つ星)スタジアム、ワンダ・メトロポリターノ。20…

追憶の欧州スタジアム紀行(1)
ワンダ・メトロポリターノ(マドリード)

 2017-18シーズンからアトレティコ・マドリードがホームスタジアムとして使用しているUEFA認定のカテゴリー4(旧5つ星)スタジアム、ワンダ・メトロポリターノ。2019-20シーズンにはチャンピオンズリーグ(CL)決勝、リバプール対トッテナム・ホットスパー戦が開催された。

 マドリードの中心地から地下鉄7番線に乗ること約20分。エスタディオ・メトロポリターノ駅に到着する。スタジアムは駅の目の前だ。



アトレティコ・マドリードの本拠地ワンダ・メトロポリターノ

 それまで、アトレティコがホームとして使用してきたビセンテ・カルデロンは、市街地の南西部に位置していた。パリで言うならパルク・デ・プランスのように、中心地からそう遠くない場所にあった。東京で言うなら品川のちょっと先。大井町、大森あたりか。

 アトレティコは本拠地を、そこからほぼ逆方向に引っ越した感じだ。東方向の郊外。東京都から千葉県に入ったあたりと言えばわかりやすいだろうか。

 マドリードの市街地から車でバラハス空港に向かおうとすると、メトロポリターノを、その右手に望むことができるのだが、かつてこのあたり一帯には何もなかった。地下鉄も伸びていなかった。こんな大田舎にスタジアムなんか建てて、誰が見に行くのだろうか。筆者はぶつくさ言いながらタクシーで観戦取材に向かった記憶がある。

 1996年8月28日、スーペル・コパ(スペインスーパー杯)第2戦。アトレティコ・マドリード対バルセロナ。

 この試合が、事実上のこけら落としだった。当時のスタジアム名は「コミュニダッド・デ・ラ・マドリード」。この頃は陸上トラック付きの総合競技場だった。

 なぜビセンテ・カルデロンではなく、こちらを使用したのか。スーペル・コパ第1戦の会場も、カンプノウではなく、モンジュイック(1992年バルセロナ五輪のメイン会場。1997年から2009年までエスパニョールがホームとして使用)だった。その理由は定かではないが、その時、このスタジアムが後にUEFA認定のカテゴリー4スタジアムとなり、23年後にCL決勝が行なわれるとは、夢にも思わなかった。

 当時、観客席があったのは正面スタンドのみだった。バックスタンドと両ゴール裏は芝生席で、日本の各地でよく目にする、国体開催のために建設された陸上競技場を想起させた。だが、正面スタンドだけは趣が違っていた。丸いお盆を半分に割ったような半円型の形状で、それを斜めに立て掛けたような、1度見たら忘れない特徴的な造りだった。

 アンバランスで、とても完成形には見えないスタジアムだった。なるほど、そうだったのかと、納得させられたのは、それからだいぶ経ったあとだ。マドリードがオリンピックの開催地に立候補する話を耳にした時だった。2012年、2016年、2020年と、マドリードは3度立候補しているが、そのメイン会場に予定されていたのがこのスタジアムだったのである。

 先に正面スタンドだけを造っておき、開催が決定したらバックとゴール裏席を建設しようとしたわけだ。しかし、マドリードはいずれも僅差で落選。招致活動の中で生まれた「エスタディオ・オリンピコ・デ・マドリード」(マドリード五輪競技場)案は、行き場を失うことになった。

 五輪招致に失敗したマドリード市側の提案だったのか、ビセンテ・カルデロンが老朽化したアトレティコ側の提案だったのか、詳しい経緯は知らないが、その後、両者の思惑が一致。マドリード五輪競技場はメトロポリターノへ軌道修正されることになった。

 それは、陸上トラック付きの総合競技場から、サッカー専用競技場への変更をも意味していた。このコンセプト変更は、普通なら簡単ではない工事になる。しかしこのスタジアムは、先述のとおり、正面スタンド以外すべて芝生席で、その部分を簡単に均すことができる状態にあった。正面スタンドしか造らなかった最初の計画が、奏功した格好だ。

 一方、丸いお盆を半分に割ったような半円状の正面スタンドは、現在のスタジアムの1階席としてそのまま活用されている。ピカピカの新築スタジアムに見えるが、実は20数年前に完成したスタジアムの改築版なのだ。「スクラップアンドビルト型」ではないところに価値を感じる。

 1階席約2万人、2階席約1万3000人、3階席約3万人。VIP席(2階席と3階席の間)約7000人。スタンドは三層式で、収容人員は6万8456人を数える。

 1996年当時、何もなかったスタジアム周辺は、現在、まったくの別世界に発展している。それは、マドリードの市街地が東の方向に発展していったことと関係している。郊外型のスタジアムではあるが、街の中心地が東に移動していることで、スタジアムが市街地の中に取り込まれつつある状態だ。アトレティコはいい方角に引っ越したという印象だ。

 古いノートを広げ、96年8月28日のスーペル・コパ、アトレティコ対バルサ戦を振り返ってみた。結果は3-1でアトレティコ。しかしバルサホームの第1戦を2-5で落としていたため、アトレティコは合計スコア4-5で敗れた。スタメンにはディエゴ・シメオネの名前があった。昨年までジェフ市原・千葉の監督を務めていたフアン・エスナイデルも、交代で出場していた。

 バルサのスタメンは、フレン・ロペテギ、アルベルト・フェレール、ゲオルグ・ポペスク、ローラン・ブラン、アベラルド・フェルナンデス、ジョゼップ・グアルディオラ、セルジ・バルフアン、ギジェルモ・アモール、フリスト・ストイチコフ、ルイス・エンリケ、フアン・アントニオ・ピッツィ。第1戦のメンバーはもう少し豪華で、ロナウド、ルイス・フィーゴ、ジオバンニの名前があった。

 1996-97は、移籍の自由と、外国人枠の撤廃などを謳ったボスマン判決が施行されたシーズンでもあった。欧州サッカーはこれを起爆剤にさらなる発展を遂げていくことになるが、メトロポリターノの正面スタンドに着席すると、それ以降の欧州サッカーの興隆が、走馬灯のように駆け巡るのだ。