土居美咲はその時、翌日から始まるBNPパリバ・オープンの予選に向けて、自信を深めモチベーションを高めていた——。土居美咲は突如中止の知らせに目を疑ったという 3月上旬に、米国カリフォルニア州で開催される「オラクル・チャレンジャー」は、BN…

 土居美咲はその時、翌日から始まるBNPパリバ・オープンの予選に向けて、自信を深めモチベーションを高めていた——。



土居美咲は突如中止の知らせに目を疑ったという

 3月上旬に、米国カリフォルニア州で開催される「オラクル・チャレンジャー」は、BNPパリバ・オープンの前週に同会場で開催される前哨戦的な位置づけである。その大会で土居は、敗戦の際まで追い込まれた試合も切り抜け、最終的に準優勝の好結果を掴んでいた。

 昨年末に負った肩のケガのため、もどかしさを抱えつつ迎えた今シーズンだが、ようやく目指すプレーができるようになってきた。連戦を勝ち抜いたことで勝利の味も十分に味わい、なおかつ身体の疲れもない。BNPパリバ・オープンの本戦出場にはわずかひと枠届かなかったが、予選を勝ち上がる自信もある。

「この勢いで、一気に行きたい」

 気持ちの高ぶりを感じながら、彼女はドロー表と試合スケジュールが出るのを待っていた。

「え、え、え? 大会キャンセルとかあり得るの?」

 土居が、そんなLINEを選手仲間の奈良くるみから受け取ったのは、「ドローが出るの、遅いな」といぶかしがり始めた頃合いである。

 あまりに予想外の文面に一瞬、目を疑ったが、大会からの公式発表も確認し、紛れもない事実であることを知った。大会は、拡大する新型コロナウイルスの影響を考慮し、開幕前日の夕方になって全スケジュールのキャンセルを発表したのである。

「こんなに大きな大会が、このタイミングで中止になるなんてあり得るの!?」

 正式な情報を目にしても、にわかには信じがたい。同時にあまりの急転直下の事態に、事の重大さをあらためて認識もした。

「(2週間後に開催予定の)マイアミ・オープンも中止になるかも……」

 そのような不安を抱えつつ、ツアー関係者に連絡を入れて情報収集を図っていく。

 大会中止が発表された翌日には、選手やコーチ、代理人たちを交えてのミーティングにも参加。その時点では、WTA(女子テニス協会)は「仮にマイアミが中止になっても、来週メキシコで開催予定の女子大会はやる」との旗幟(きし)を鮮明にしていた。

「ならば帰国するにしても、まずはメキシコの大会に出てからにしようか……」

そのようなプランを思い描いた矢先に、状況はさらに加速度的に変化する。

 WHO(世界保健機関)が「パンデミック(世界的大流行)」宣言を出したのに伴い、米国は海外渡航者の規制を強化。それに前後し、マイアミやメキシコも含む多くの大会の中止が発表された。

 この段に至っては、一刻も早く帰国するのが懸命だろう。未消化の心と不完全燃焼の身体を抱えたまま、土居は日本行きの便に乗った。

「あの頃は、落ち着かなかったですよね……。いつまで大会がないのか? 当初は『ツアーは6週間中断』だと言われ、それでも長いなと感じていたので。でも、ヨーロッパの状況はどんどん悪くなっているし、再開がいつかわからないので、どう調整したらいいのかわからなかったです」

 テニスが他のプロ競技と比べて独特なのは、オフシーズンがほとんどない点にあるだろう。

 女子のツアーは1月から10月末、男子ツアーは11月中旬まで毎週のように大会が組まれており、それ以降もITF(国際テニス連盟)主催の下部大会は、世界のどこかで毎週開催されている。そのなかで、どのようなスケジュールを組むかは個々人に委ねられ、選手によってはひと月以上まとまったオフを取らないことも珍しくない。

 それだけに、突如生じたスケジュールの空洞は、選手の心にもぽっかりと穴を開ける。上り調子だった土居にしてみれば、その思いは一層強かった。

「やっぱり、モチベーションを作るのが一番難しいですね。今、何かに取り組んでも、実戦で試せないので……。

 テニス選手って、練習やトレーニングの成果を試せる機会が毎週のようにあるのが、普通の状態でプレーしていた。そのサイクルにある意味慣れているので、『あれ? こんなに長い期間、どうやって気持ちや身体を維持すればいいんだろう』と思ってしまいました。

 もちろん、今までも年末にオフはあるけれど、それは1年戦い抜いて『やっとオフだー! トレーニングにも取り組める!』という充実感とともに迎えていたんです。でも、今は全然疲れていない。ここからやるぞ、というタイミングでのぽっかり空いた期間は、全然うれしくない。だから、メチャメチャ難しいですね」

 そのように誰もがモチベーションを失いかけるなかで、今年29歳を迎える土居がまず心がけるのは、「維持」だという。

「今はそこまで(状態を)上げすぎないで、日程がある程度、決まってきてから追い込んでいこうと思っています。大会までの期間もそうですが、大会が再開したあとに、どれだけ詰まったスケジュールになるかわからない。なので、今はテニスよりトレーニングに重きを置きつつ、筋力やボールを打つ感覚を落とさないことを一番に考えています」

 毎週のように試合を戦ってきたテニス選手たちにとって、いつ実戦を戦う日が訪れるかわからないなか、モチベーションを維持するのが困難なのは想像に難くない。だが、だからこそ、日々の練習やトレーニングに意義や目的意識を見いだせるか……。その真価が問われもするのだろう。

 ボールを打つことに関しては完成形に限りなく近づき、上達の余地もないように見えるトッププロたち。そのような超上級者が、単純作業にも見える反復練習やトレーニングに、いかなる意義や楽しみを見いだせるのだろうか?

 そのような純粋な問いをぶつけると、土居は戸惑いの響きを帯びた声で「だって、そんなにうまくないですもん」と極めて実直に答えた。

「私もできないこといっぱいあるし、上達できる喜びを感じているから、続けられるんだと思います。とくにテニスは対人スポーツなので、相手によって球質も異なるし、一球一球で微妙な変化もあるので、毎回完璧に打てることなんてない。日々、ボールを打って上達する楽しみは感じますし、自分は下手くそだって感覚はありますよ。

 目的意識はその時々で違うけれど、今ならショットのクオリティを上げることを考えています。軌道や回転を重視するなど、自分のなかでテーマを決めてやったほうが楽しいですから」

 3月中旬の時点で6週間の中断を決めた男女のツアーは、その後、全仏オープンの5月から9月への延期を発表し、6月下旬開催予定だったウインブルドンまでもが中止を決めた。

 先行きは、いまだ不透明なままである。それでも土居は経験に依拠する対応力と、今も「日々上達の喜びを感じる」という無垢な初心を両輪とし、非日常となった日常を乗り切っていく。