「自信はあるよ。とてもワクワクしているんだ」 開幕戦オーストラリアGPを目前に控えた木曜日、レッドブル・ホンダのテクニカルディレクターを務めるピエール・ヴァシェは、そう言って笑顔を見せた。コロナウイルスの影響により、パドックは閑散としていた…

「自信はあるよ。とてもワクワクしているんだ」

 開幕戦オーストラリアGPを目前に控えた木曜日、レッドブル・ホンダのテクニカルディレクターを務めるピエール・ヴァシェは、そう言って笑顔を見せた。



コロナウイルスの影響により、パドックは閑散としていた

 メルセデスAMGと優勝争いができるかどうかは、実際に走ってみるまでわからない--。そう言いながらも、その表情からはかなりの自信がうかがえた。

「マシンは去年型よりもスタビリティ(安定性)が向上していて、非常にいい仕上がりだ。昨年型マシンで我々が抱えていた、ある一定のコンディションでスタビリティが欠ける問題を解決することができた。中速域での空力性能とスタビリティも完全に改善できている。人はあれこれ言っているようだけど、そんな問題はまったくないよ」

 テストでは後半にレースシミュレーションを行なっておらず、ライバルとの直接比較は行なっていない。しかし、自分たちの燃料搭載量はわかっているので、最終日に記録したベストタイムから自分たちの実力の高さは把握できているのだろう。

 ホンダのパワーユニット側も、テストで見つかったいくつかのセッティング面の課題をHRD Sakuraのベンチで潰し込み、メルボルンへとやって来た。ハードウェアは6日間のテストをノートラブルで走り切っただけに、大きな変更はなく順調だった。

 ホンダの田辺豊治テクニカルディレクターはこう説明した。

「目的のひとつである『いろんな問題点を見つけ出す』という意味でも、テストは順調でした。いろいろ課題が見つかったということですね。いろいろキャリブレーション(調整)などをやっていましたけど、最後のほうにちょっと出た懸案もありましたから、そのへんは潰し込んで(メルボルンに)来ています。現時点でできることは可能なかぎりやってきました」

 ドライバーたちは自分たちのパフォーマンスについて、あえて明言は避けるものの、非常にリラックスした様子でメディアからの質問をかわしていた。

「自分たちがどのあたりにいるかを推測することは難しいし、だからこそ推測はしたくない。とにかく走り始めるのを待つしかないんだ。あれこれ考えても仕方がない。実際に走ってみて、本当の差について語るべきだよ。

『ライバルたちはどんなことをしているんだろう』『自分たちがどこにいるんだろう』なんて考えて時間を浪費するよりも、自分たちのクルマのどこを改善できるかに集中したほうがよっぽどマシ。そんなのエネルギーの無駄使いだと思う。それが僕のアプローチの仕方なんだ」(マックス・フェルスタッペン)

 そう語るドライバーの取材は、いつものようにテーブルを囲んで向かい合うスタイルではなく、屋外でドライバーから2メートルの距離を置いて設置されたテンサバリアーの向こう側から質問し、マイクで答えるというスタイルが取られていた。

 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、パドックでも予防策が必要となっていたからだ。大勢のスタッフが密集することになるテレビインタビューはすべてキャンセルされ、代表質問のみとなっていた。

 そんななか、水曜日に新型肺炎とおぼしき症状を訴えたチームスタッフ数名が名乗りをあげて、ホテルの自室で自己隔離を経たあとに検査した結果、マクラーレンのスタッフ1名に陽性反応が出た。

 これを受けて、マクラーレンは木曜の夜10時にオーストラリアGPから撤退すると表明。当該スタッフとの接触が多かった14名も経過観察のため、14日間の隔離措置を受けることになった。

 ドライバーやチーム首脳陣などが宿泊するメルボルン市内のクラウンホテルでは、全チームの代表とFIA(国際自動車連盟)、FOM(フォーミュラ・ワン・マネジメント)関係者が集まり、今後の対応が話し合われた。

 当初はオーストラリアGP開催に関して、投票は五分五分の結果だったという。だが、メルセデスAMGがダイムラー本社CEOとの話し合いを経て反対側に回ると、最後はレッドブルとアルファタウリだけが開催を主張するという展開になった。

 テクニカルディレクターの表情が物語っていたとおり、レッドブルは相当な自信を持っていたのだろう。

 開幕戦がキャンセルとなれば、翌週のバーレーンGPもほぼ自動的にキャンセルになる。第3戦のベトナムGPも入国制限のため、開催は難しい状況であり、その先の見通しもはっきりとはしていない。

 つまり、ここでレースが開催されなければ、フェラーリをはじめとした遅れ気味のライバルたちに開発の猶予を与えてしまうことになる。だからレッドブルとしては、自分たちが一歩リードしている今のうちにどうしてもレースがしたかったのだろう。

 しかし当然、最優先に考慮されるべきは、関係者や観戦に来たファンの安全だ。

 メルセデスAMGはFIAに対してオーストラリアGP中止を求めるレターを送り、F1側は中止の意向を固めた。そして、地元ビクトリア州当局からも「観客を動員してのイベント開催は自粛すべし」との通達が出され、最後まで開催にこだわっていた主催者AGPCも折れて中止を発表するに至った。

 正式発表がなされたのは、金曜フリー走行開始まで2時間を切った午前10時10分だった。

 ただ、いくつかのチームはすでに、仮にレースが行なわれたとしてもマクラーレンのように不参加というスタンスを決めており、もともとオーストラリアGP開催に否定的だったセバスチャン・ベッテル(フェラーリ)やキミ・ライコネン(アルファロメオ)らは朝のフライトですでにメルボルンを後にしていた。

 表面的な事象だけを見れば、たったひとりの感染者のためにオーストラリアGPが中止になったということになり、それに対して批判的な声もある。

 しかし、実際にはパドックに限らず世界全体での感染拡大を受け、WHO(世界保健機構)からのパンデミック宣言や地元政府からのイベント自粛要請が出されたことで開催は困難になり、チーム側が開催に反対したことで実質的に中止という結論に至った。

 ひとりのためではなく、アルバートパークに集まったすべての関係者とファンを守るため、さらにはメルボルン全体、オーストラリア全体への感染拡大を防ぐために中止になったのだ。

「昨夜も遅くまでFOMと話し合いを行ない、関係者との調整を重ねてきた。今朝になって地元政府の保健当局責任者が大きく見解を変えたことが、我々の決断に大きく影響した。これ以上早く発表することはできなかった」

 主催者側はこう弁明したが、チーム関係者から感染者が出ようと出まいと、こうした結論に至ったのであれば、当初から多くの関係者やファンをアルバートパークまで来させて彼らの身を危険にさらす必要などなかったはずだ。

 F1のチェイス・キャリーCEOも「金のために決断が遅れたのではない。2日前にこうなることが予測できないような流動的な状況下で、我々は正しいタイミングで正しい決断を下したのだ」と語ったが、こうなる可能性をはらんでいることは何週間も前から、誰の目にも明らかだったはずだ。

 結局は、誰もが「中止」の言い出しっぺになって開催権料やチケット返金などの損害を被ることを避けたため、ここまで決断が遅れて、傷口が広がった状態での決定になってしまった。

 事実、第2戦・バーレーンGPと第3戦・ベトナムGPの延期も、この日の夜には正式発表された。すでに2月に延期が発表されていた第4戦・中国GPと合わせて、4月末までのすべてのグランプリが取りやめになった。

 会場内には無数のアルコール除菌剤が設置され、手洗いやマスク使用に関するガイダンスを周知徹底したり、万一の場合に備えて救護ポイントを多々設置したりと、主催者側の開催実現のための努力は、現地にいればよくわかった。

 しかし、大勢の人を命の危険にさらしてまで開催を決行しようとするのではなく、オーストラリアGPも最初から開催延期を考慮しておくべきだったのではないだろうか。

 ホンダの山本雅史マネージングディレクターは、中止の決定を受けてこう語った。

「お客様も楽しみにしていたと思いますし、僕としても今まで関わってきた5年間で開幕前テストが一番順調だったし、開幕は気持ちよく迎えたかった。

 でも、これだけ世界中で(新型コロナウイルスに対する)いろんな話があるなかで、ホンダとしても、ファンのみなさんやエントラントのみなさんの安全と健康を第一に考えて自粛すべきではないかと考えていました。国をまたいで開催されているF1だけに、すごく難しい決断だったと思うけど、正しい決断だったと思うし、ホンダとしてはFIAやFOMの意見を尊重します」

 日本のファンとしても、2020年のF1が華やかなシーズンのスタートを切る様子、レッドブル・ホンダがメルボルンで好走する姿を見たかったはずだが、その場にいるすべての人の安全が保証できないのであれば、開催は断行すべきではない。

 もちろん、各チームのファクトリーやHRD Sakuraなどパワーユニット拠点では、これからも開発が続けられる。

 またグランプリが走り出せる日まで、今はしばらくの辛抱が必要な時だ。