彼女が生まれたのは、シベリア西部の人口5万人ほどの小さな町だった。 冬は長くて寒く、10月には気温は零下へと突入する。マイナス30度にも達する極寒の季節を経て、遅い雪解けを迎える4月19日に、彼女はこの世に生を受けた。32歳で現役引退…

 彼女が生まれたのは、シベリア西部の人口5万人ほどの小さな町だった。

冬は長くて寒く、10月には気温は零下へと突入する。マイナス30度にも達する極寒の季節を経て、遅い雪解けを迎える4月19日に、彼女はこの世に生を受けた。



32歳で現役引退を表明したマリア・シャラポワ

 その凍土の町・ニャガンは、現在のベラルーシに住んでいた若い夫婦がチェルノブイリの原発事故から逃れ辿り着いた地である。そして夫婦は娘が4歳になった時、黒海に近いソチへと移った。

 この比較的温暖なリゾートの町で、父のユーリーは「テニス」というスポーツを知る。そして娘にもラケットを握らせた彼は、何時間も一心不乱に壁打ちを続ける娘の姿に、とてつもない可能性を見いだした。

 漠然と思い描いた成功の未来像が、なかば狂気とも言える”アメリカン・ドリーム”に向けて走り出したのは、娘がまだ6歳の日のこと。モスクワを訪れた往時のスタープレーヤー、マルチナ・ナブラチロワからかけられた「この子は才能がある。もっといい環境を与えるべき」のひと言が、夢への片道切符となった。

 その言葉を唯一の担保とし、ユーリーは6歳の娘の手を引いて、世界のテニスの中心地であるアメリカのフロリダ州へと渡る。

 伝手はない。英語も話せない。ユーリーのポケットに入っていたのは、娘に託した夢と、1000ドルにも満たない現金のみ……。
 
 これが世に広く知られている、マリア・シャラポワの始まりの物語である。
 
 関係者の間で繰り返し語り継がれてきたこの”フェアリーテイル”は、おそらくは伝聞を重ねるうちに詳細が変容し、なかば神話化した側面もあるだろう。

 父が渡米時に手にしていた現金は700ドルだったとも、さすがにもっと多かったとも言われている。物語の重要人物であるナブラチロワは、父への進言を「覚えていない」と漏らしたこともあるそうだ。

 ただ、たしかなのは、娘が6歳の時に父娘はアメリカに渡ったこと。そして崩壊間もないロシアに育った少女の目には、すべてが大きく映ったということだった。

 「飛行機、空港、広がるアメリカの大地——。何もかもが、とてつもなく巨大だった」

 引退を告げる手記のなかで、彼女は幼い記憶をそのように綴った。

 その手記でシャラポワは、「初めて立ったテニスコートは、コンクリートがボコボコで、ラインもところどころ消えかけていた」と、キャリアの原点に言及している。

 誰も気にも留めぬそのコートから始まり、彼女は世界中の異なる町の、あらゆるサーフェス(コートの種類)でプレーしてきた。

 初めてITF(国際テニス連盟)主催の大会を制したのは、15歳の誕生日の数日後。場所は、群馬県草津町。プロテニスプレーヤー、マリア・シャラポワの栄光への足跡は、温泉で有名な町の、砂利混じりの土のコートに刻まれた。

 草津で踏み出したその一歩が、世界で最も有名なテニスコートでの表彰式に至るまで、わずか2年と数カ月しか要しない。

 ウインブルドンの決勝戦で、セリーナ・ウィリアムズ(アメリカ)を圧倒したその時、彼女は今の『マリア・シャラポワ』としてのレールに、なかば強制的に飛び乗ることになる。

「自分の成し遂げたことの大きさも知らない、世間知らずな女の子だった」

 その時の自身を、彼女はそのように述懐した。

 個人的な思い出で言うと、その当時にアメリカで流れていた、あるテレビコマーシャルが印象に残っている。

 それは、テニスボールがゴム紐で土台につながれた商品のCMで、その映像のなかでシャラポワはボールを打ちながら、「これがあれば、ひとりでもテニスが上達できる!」というようなキャッチコピーを言っていたと記憶している。CM内のあどけなさを残す少女は、猛スピードで栄光と名声を獲得するウインブルドン女王の成長に、遠く取り残されているようだった。

 17歳で栄華を極めて以降、常に超然としたスターであり続けた彼女が、ほかの選手たちと一定の距離を置いていたのは有名な話である。時にその姿は他者の目に奇異に映ったが、同国のライバル、スベトラーナ・クズネツォワは、それは「当然だ」と明言する。

「たしかに彼女は、私たちと打ち解けているとは言えなかった。それを『高慢だ』とか『鼻持ちならない』と言っていた人がいたのもたしか。でも、私はそう思ったことはない。誰もが彼女から、何かをむしり取ろうとしていた。彼女は、自分自身を守る必要があったのよ」

 過剰なスポットライトを浴びる同胞に、そのような思いを抱く2歳年長者は、「マリアに関する、よく覚えていること」を振り返った。

 まだジュニアだったか、あるいはツアーを周り始めたばかりだったのか……いずれにしても、お互いにまだ10代だった遠い日の記憶。マイアミ大会の会場でクルマに乗っていたクズネツォワは、父親と並んで歩くマリア少女に「送っていくよ」と声をかけた。

 車中でどんな会話を交わしたかまでは、記憶が定かではない。ただ鮮烈に覚えているのは、顔に幼さを宿すシャラポワがすでに、プロとしての峻烈(しゅんれつ)な気構えを備えていたことだという。

「プロ」であることに確固たる定義とプライドを持つ彼女は、その哲学をコート内外でも体現してきた。

 試合が始まる前にやるべきことは完遂し、ひとたびコートに足を踏み入れたなら、観衆や対戦相手に自分の弱みは見せない——。

 そのようなシャラポワの美学を、彼女のストレングス&コンディショニングコーチを長く務めた中村豊氏も、深い敬意とともに証言する。

 テーピングなどは極力避け、試合中も可能なかぎりトレーナーは呼ばない。背筋をピンと伸ばし、ひざ頭を揃えてベンチに座る姿も様(さま)になる。彼女は、いついかなる時も、世間が抱く『マリア・シャラポワ』であり続けようとした。

 禁止薬物メルドニウムに陽性反応が出た時も、そして今回の引退も、彼女はその事実や決意を自らの意志で、自分の望むタイミングで公(おおやけ)にしてきた。

 引退の手記を寄せたのは、世界最大の米国ファッション誌『VOGUE』と『Vanity Fair』。さらに、引退に先駆け独占インタビューを受けたのは、『ニューヨーク・タイムズ』紙だ。

 夢だけを羅針盤に、旧ソ連の小さな町から新大陸に渡った少女は、その26年後にアメリカの象徴とも言えるメディアで、自らの引退を世界に告げる。

 発表と同時にツアーに背を向ける、己の美学を貫いた「マリア・シャラポワ」らしい引き際だった。