仲間を支え、仲間に支えられた 「いい仲間に巡り合えました」。笹野由宇(スポ=東京・世田谷学園)は、早大での4年間をそう振り返った。長い競技生活の集大成としての早大空手部の4年間、そして主将として苦悩しながら進み続けた1年間を追う。 兄を追っ…

仲間を支え、仲間に支えられた

 「いい仲間に巡り合えました」。笹野由宇(スポ=東京・世田谷学園)は、早大での4年間をそう振り返った。長い競技生活の集大成としての早大空手部の4年間、そして主将として苦悩しながら進み続けた1年間を追う。

 兄を追って3歳で空手を始めると、小学生の頃から流派別の全国大会では何度も優勝。華々しい実績を引っ提げて、強豪校の世田谷学園に入学した。しかし高校時代は思い描いたような活躍ができず、葛藤することも多かったという。そんな中、早大を目指した背景には憧れの先輩の存在があった。2代上の主将・末廣祥彦氏(スポ=平30年卒)だ。「自分も同じ道を歩みたい」。尊敬する先輩の背中を追いかけて進学先を決めた。

 晴れて早大に入学すると、1年目から早くもチームの主力として活躍を見せる。春の関東学生選手権ではチームで唯一上位大会に駒を進めると、後期の団体戦でも勝ち星を積み上げ、上々のルーキーイヤーとなった。しかし、2年生ではけがにつまずいた。試合で結果を出すことはおろか、満足に練習を積めない日々が続く。それでも、「やめようと思ったことはない」。部の仲間の支えによって、落ち込んでいた気持ちは変わった。練習から離れた時もチームを客観的に見るようになり、それが主将になってからのチーム作りに生かされたという。3年生ではけがから復帰し、関東大学選手権での41年ぶりベスト4の快挙に貢献した。


チームメイトを労う笹野。常に仲間のことを考え続けた

 そして、主将となって迎えた最終学年。笹野にはある目標があった。「皆で一つのチームを作り上げたい」。早大空手部には国際大会経験者から初心者までさまざまな競技レベルの選手が集うため、全員が同じ目線で競技に臨むことは難しい。しかし、部員全員が主体的に練習に取り組む姿勢を同じくすることで、チームを一体化できるのではないか。その思いで、皆が自ら課題を見つける環境づくりに取り組んだ。特に部員のコミュニケーションを積極的に取り、個人の目標や課題を明確化するサポートを心がけたと語る。そうすることで早大の自由度の高い環境に学年を越えた信頼関係が加わり、チームは確実にまとまっていった。

 その一方で、自身は主将の重圧に苦しめられた。主将に就任したことで「負けられない」という気持ちが一層強くなったのだ。特に団体戦では唯一の最上級生として、チームの精神的な要となることが求められる。しかし、強すぎる責任感がいつしか空回りし、再びスランプに陥ってしまった。持ち味のカウンターの速さが鳴りを潜め、なかなかチームに勝利を持ち帰ることができない。当時はスランプが精神面から来ているとは気づかず、誰にも相談できずにいた。そんな時に声をかけてくれたのが監督や同期だった。「気負い過ぎなんじゃないか」。周りのアドバイスのおかげで気持ちが軽くなり、本調子に戻ってきた。引退まで残り1か月。再び本来の動きを取り戻すと、その後は快進撃を見せる。体重別選手権で公式戦では初の3位入賞を果たすと、大学最後の試合である早慶戦でも大将戦で勝利。全てを終えて「やり切ったかな」と話す表情は、1か月前とは見違えるように晴れやかだった。

 19年間の空手歴。決して順風満帆な競技生活ではなかったかもしれないが、振り返ると自然に「楽しかった」という言葉、そして仲間への感謝が口をついた。主将として仲間を支えてきた。しかし、自分が辛い時にそばで支えてくれたのもやはり仲間だった。最後の1年はこれまでの空手人生を凝縮したような時間だったと言えるだろう。

 そして、早慶戦を終えて一度は引退を決めた笹野の元に、実業団からの誘いが舞い込んだ。一般企業での勤務と実業団の練習を両立することは並大抵のことではない。しかし、物心つく前から続けてきた空手と関係が切れることに違和感を感じていたこと、そして両親の喜ぶ姿を見たことで笹野の心は決まった。「自分が空手を続けることで笑顔にできる人がいるのかな」。慣れ親しんだ道着に再び袖を通し、笹野は新たなステージへと踏み出して行く。

(記事 名倉由夏、写真 名倉由夏、江藤華氏)