文武両道を貫いた4年間 「自分はホッケーと勉強をしに大学にきている」。大学生活においてそのような軸があったからこそ、アイスホッケーと同じくらい勉学にも全力で取り組むことができた、と大崎大祐(創理=青森・八戸)は4年間を振り返る。理系の学部に…

文武両道を貫いた4年間

 「自分はホッケーと勉強をしに大学にきている」。大学生活においてそのような軸があったからこそ、アイスホッケーと同じくらい勉学にも全力で取り組むことができた、と大崎大祐(創理=青森・八戸)は4年間を振り返る。理系の学部に所属しながら、体育会学生として大学トップレベルの環境で競技に励む学生は決して多くはなく、その二つを全力でやり通すことはそう容易なことではない。だが、大崎はここまで単位を一度も落とすことなく学部生としての生活を全うし、さらに4年時には副将としてチームをけん引した。文字通り文武両道を貫いた大崎の早大での4年間、そして17年間にも渡ったアイスホッケー人生に迫った。

 青森県八戸市出身市の大崎はスピードスケートをやっていたという祖父の影響で、幼い頃からリンクに連れられスケートを覚えた。小学校のクラブチームの監督と、中学校の部活の監督が早大のホッケー部出身だったこともあり、幼い頃から早大に憧れを抱いてきた。早大に入学するにはどうすればいいのかと考えた時に「勉強の方で頑張って入ろう」という思いから県内の進学校である八戸高校に進学を決める。そこで大崎を待ち受けていたのは、少し変わったホッケー生活だった。八戸高校のアイスホッケー部には7人しかプレーヤーがおらず、フォワードが少なかった。周りのディフェンスよりも身長の低かった大崎はこれまでのポジションであるディフェンスからフォワードとしてプレーすることを余儀なくされる。公式大会では他の部活からゴールキーパーを借り、7人のプレーヤ―もほとんど交代なしで一試合をやり切る。ホッケー強豪校では経験しえないアイスホッケーを高校で体験した。


春の早慶戦でプレーする大崎

 特殊な高校3年間のホッケー生活を終えて、指定校推薦で早大に入学した大崎はとうとう憧れのエンジのユニホームに袖を通す。入部当初は、フォワードとしてプレーしようと考えていた。しかし、早々と周りの高いレベルに圧倒された。ちょうどその時チームはディフェンスが少なくディフェンスとして出場した練習試合で「ディフェンスをやっていた方がやりたいことがすぐできる」という感触があり、再びディフェンスとして早大でのホッケーが始まる。1年目、2年目は周りの選手に助けてもらい、自分のプレーを模索する日々が続いた。

 だが3年目のシーズンでは変化が訪れる。後輩のディフェンスと組むこととなり、頼る立場から引っ張る立場へとの進化が求められた。「今まで以上に自分が何をしなければいけないかを考えた一年間だった」。そんな3年目を終え、迎えたラストシーズン。大崎は副将としてAマークをつけることとなった。だが、Aマークが負担となることもあった。秋の関東大学リーグ戦(リーグ戦)の前半は自分が思い描くプレーができず苦しんだ。Aマークをつけたことで、自分がやらなければという思いが強くなりすぎて空回りしてしまったと大崎は振り返る。だが、後半からは徐々に心に余裕が生まれ本来の自分のプレーを取り戻し早大は3位でリーグ戦を終えた。大学4年間を通して大崎の代は一度もタイトルを獲得することはできなかった。それでも「憧れのユニホームに袖を通してホッケーができたということでは、本当に幸せな4年間だった」と振り返る。

 「目標だった場所であり、好きなことに対して一生懸命考えて頑張れるところ」だったという早大のホッケー部を巣立ち、大崎は今年の4月から大学院に進む。院生としての2年間は研究に捧げ、一度競技からは離れる。「そこでもう一度選手としてやりたいと思うのか。教える立場としてホッケーに携わりたいと思うのか。または完全にホッケーから離れたい、戻りたくないと思うのか」。それはまだ自身も予想できていない。だが、たとえどんな道を選んだとしても、家族の次に長い付き合いをした存在であるアイスホッケーが、そしてアイスホッケーで培った様々なものが大崎を支えてくれることだろう。

(記事 小林理沙子、写真 細井万里男)