『人生』 入学前は「大学では通用するか分からない」と不安を抱いていた橋本侑京(スポ=東京・足立新田)。しかし、「入学するときに思い描いていた結果よりはるかにいい結果になりました」と四年間を振り返る。それもそのはず。団体戦では1年生から大将を…

『人生』

 入学前は「大学では通用するか分からない」と不安を抱いていた橋本侑京(スポ=東京・足立新田)。しかし、「入学するときに思い描いていた結果よりはるかにいい結果になりました」と四年間を振り返る。それもそのはず。団体戦では1年生から大将を任され、個人戦では『創部史上初』『30年ぶり』などの大記録を残した。そして、今や早大相撲部の歴史を語る上で欠かせない人物となった。そこで、そんな大活躍の原点を探るべく、相撲との出会いから相撲への向き合い方に迫る。

 相撲との出会いは兄が出場する区大会に一緒に出たこと。相撲クラブに入ったのも兄の影響だった。つらくて地味な練習に「相撲なんかやめてやる」と言いつつも、稽古を重ねて着実に力をつけていった。高校では3年連続国体の都代表に選ばれ、進路が注目される選手に成長。そのため、大学進学にあたり数々の強豪校から誘いを受けるようになる。それでも橋本が進学を決めたのは、当時リーグ戦をBクラスで戦っていた早大だった。動機はこのようなものだった。「ワセダブランドに憧れがあった」。「Bクラスなら伸び伸び相撲が取れて楽しめる」。思いは強く、なんとしてでも早大に行きたかった橋本は高校の先輩を頼って室伏渉監督(平7人卒=東京・明大中野)に自ら接触。監督に勉強の相談に乗ってもらったこともあり、見事早大に進学することが決まる。


立ち合いからの強烈な突きを見せる橋本

  しかし、後に早大の歴史を変える橋本も入学当初は苦しんだ。「勝てなくて、けがもして、体つくりからはじめなきゃいけなくて、フラストレーションがたまって腐りかけた時期」があったと振り返る。転機となったのは初めて大将として臨んだリーグ戦。4—4というプレッシャーのかかった場面で迎えた相手は現在プロでも活躍するつわもの。それでも「自分の形」である押し相撲で白星を手にすると、チームに勝ち点をもたらした。この時「やればできるんじゃん」と大きく自信をつけた橋本は、これ以降、勝率も上昇。2年生から4年生まで勝率は6割超えを維持した。東日本学生個人選手権では創部史上初の135キロ未満級優勝。そして全国学生個人体重別選手権135キロ未満級でも優勝。さらに4年生で臨んだ全国大学選抜相撲宇佐大会では重量無差別の中で準優勝という偉業を成し遂げた。このような結果を残せた裏には破天荒で適当な性格だという橋本の「全てを受け入れてくれて応援してくれた」部の環境があったと語る。また日ごろから「弱点を克服するのではなく、長所を磨くこと」を意識して取り組んだ。自主性を重んじる早大相撲部─互いを認め合う環境、自分に必要な練習ができる環境─が橋本を強くした。

 大学相撲で実績を残した橋本の元にはプロの世界から勧誘の声が掛かった。「(相撲)部屋に入って一発逆転もあるかもしれない」と笑うものの、いったんは競技者の身から離れるとしている。それは大学進学時から「大学で区切り」と決めて土俵に上がり続けてきたからこその決意だった。今後については「部活には第一の引退と第二の引退がある」と切り出した。第一の引退は現役選手としての引退。そして、第二の引退は互いに高めあってきた後輩選手の引退を指すのだという。この言葉を胸に今後はコーチとして早大相撲部を支えていく。それは、「自分を成長させてくれた場所に恩返しする」ために。そして「こんな奴もいたなって僕を忘れさせるくらい活躍する」後輩を育てるために。相撲を『人生』そのものと語った橋本。橋本の相撲『人生』はまだ終わっていない。

(記事 大貫潤太 写真 大貫潤太、望月清香)