2020年のセクシーフットボール 野洲高校メンバーは今金本竜市(1)年末年始に行なわれる恒例の全国高校サッカー選手権大会。今から14年前、普段は名のある強豪が上り詰める『優勝』の座に、突如無名の高校が輝き、ファンの熱狂を呼んだ。卓越したボー…
2020年のセクシーフットボール 野洲高校メンバーは今
金本竜市(1)
年末年始に行なわれる恒例の全国高校サッカー選手権大会。今から14年前、普段は名のある強豪が上り詰める『優勝』の座に、突如無名の高校が輝き、ファンの熱狂を呼んだ。卓越したボールテクニックとコンビネーションで、「セクシーフットボール」と言われた滋賀県の野洲高校だ。当時のメンバーに話を聞いた。
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野洲高校の伝説のキャプテン、”ニッチョ”こと金本竜市は、ことあるごとに14年前の試合を見返しているという。
第84回全国高校サッカー選手権大会で、初優勝を遂げた野洲高校
「家でほとんどテレビを観ないのですが、選手権の試合のDVDは全部持っていて、よく見返しますね。自分にとってのモチベーションビデオというか、観ていると頑張ろうと思えてくるんです。たまに見ながら泣いたりしてますから(笑)」
第84回(2005年度)全国高校サッカー選手権大会。出場2回目のダークホース、滋賀県立野洲高校は、修徳、四日市中央工業、高松商業、大阪朝鮮、多々良学園、鹿児島実業といった名門を、攻撃的なサッカーで次々に撃破。高校生レベルを超越したテクニックとコンビネーションを織り交ぜた華麗なスタイルは”セクシーフットボール”と呼ばれた。
「野洲高の時は、市立船橋や東福岡、FC東京などと練習試合をしても勝つんです。試合後にみんなで決まって言うのが『相手、Bチームやんなぁ? Aチームちゃうよな』って。それぐらい相手を圧倒していたし、(平原)研や(楠神)順平よりもうまいやつなんて、そういなかったですから」
平原研は野洲高で背番号10をつけ、センスあふれるプレーで”天才”と呼ばれていた選手。楠神順平は高校卒業後、同志社大学を経て川崎フロンターレやセレッソ大阪、清水エスパルスでプレーする、後のJリーガーである。
野洲高の主力メンバーのうち、6名がプロになった。出世頭は乾貴士(エイバル/日本代表)だろう。切れ味鋭いドリブルとトリッキーな技術を武器に、当時2年生ながら攻撃のキーマンとして躍動。楠神と乾の両ワイドは、高校サッカー史に残るデュオと呼べるほど魅力的なものだった。
そんな乾も、1学年上のキャプテンにかかると「ほんまにメンタルが弱くて、何度注意したかわかりません」となる。
「タカシ(乾)はメンタルが弱くて、自分のプレーができないと、ハーフタイムに泣きながらベンチに戻ってくるんです。”お前、なに泣いてんねん!”ってよく怒っていました」
自身を「ジャイアンタイプ。完全なるパワーマネジメントです(笑)」と評する金本。当時のチームメイトで、高校卒業後はジェフユナイテッド市原・千葉に進んだ青木孝太いわく「個性が強すぎるメンバー」を、キャプテンとしてまとめあげていた。
「ニッチョがいなければ、全国優勝はできていなかったと思います。それぐらい、みんなをまとめる中心的な役割でした」(青木)
ある日の練習で、青木がチームメイトのプレーに苛立ち、途中で切り上げて家に帰ったことがあった。当時の野洲高のメンバーは互いに要求が高く、パスのタイミングがズレれば言い合いになり、ボールを右足につけるか、左足につけるかにまでこだわっていた。
チームメイトの雑なプレーに我慢がならなかった青木は、怒りのあまり、グラウンドを飛び出した。その姿を見ていた当時の山本佳司監督(現総監督)は、金本に声をかけた。
「山本先生から『ニッチョ。青木を頼むな』と。『うそ。俺?』と思いながらも孝太に電話して、『頼むで。俺もこんな電話したないねん』とか言いながら、次の日に練習に来るように言っていました」
青春の1ページらしく、ときにぶつかり、喧嘩をしながらも、チームワークを育んでいった野洲高の選手たち。個性派揃いのメンバーは、金本を中心にまとまっていった。
金本のポジションはボランチだ。キック精度に天性のものがあり、左右にパスを散らし、両ワイドの楠神や乾、前線の青木を走らせるなど、トップ下の平原とともにセクシーフットボールの操縦士として活躍した。
「僕らの決まりに、『走っている選手には、絶対にパスを出す』というものがあるんです。タッチライン際を走っている選手が見えているのに、そこにパスを出さないのは罪やぐらいに思っていましたからね。だから、サイドの選手も思い切って攻め上がる。僕も『アイツなら、ここに走ってるやろうな』と思って、見ずにパスを出していましたから。それでパスが通るんです」
野洲の攻撃は多彩だった。金本が長短自在のパスを操り、平原がピンポイントでスルーパスを通す。両ワイドの楠神と乾がドリブルで仕掛け、FWの青木は馬力あふれる突破で最終ラインを破り、スーパーサブの瀧川陽とともにゴールを量産した。
野洲高校のキャプテンとして、チームを引っ張っていた金本竜市(写真中央)
今でも動画サイトなどで当時のプレーを見ることができるが、「このサッカーを14年前の高校生がやっていたのか!」と驚きを禁じえない。技術、スピード、コンビネーション、そしてプレーのアイデアは、大げさな表現を許してもらえるならば、日本サッカーの歴史上、類を見ないものだ。
野洲高のメンバーは滋賀県のジュニア、ジュニアユースクラブ『セゾンFC』出身の選手が多く、小中学生の頃から、岩谷篤人監督(当時)に、プレーで相手の逆をとることについて、厳しく指導をされていた。
「野洲高のコーチもされていた岩谷さんからは、相手の逆をとることと、みんなで同じイメージを描くことの大切さを、ずっと言われてきました。だから決勝戦のゴールも、みんなからすごいと言ってもらいますが、僕らからしたら鉄板の形というか、タカシはヒールで落とすやろうと思ったし、研がパスを出すのもイメージどおりですね」
高校サッカー史上もっとも美しいゴールと呼ばれた、決勝戦の2点目。田中雄大のサイドチェンジを右の乾貴士が受け、ドリブルで中に進んで相手をひきつけて、ヒールで落とす。平原が縦に出したパスを中川真吾が中央に送り、ファーサイドに走り込んだ瀧川がダイレクトに蹴り込んだ。
劇的な決勝ゴールだが、金本にとってはそれほど美しくはない思い出だという。
「決勝ゴールの話は、当時のチームメイトと集まっても全然出ないですね。ひょっとしたら、1回も出てないんちゃうかな? 理由は…僕や(青木)孝太とか、中心で引っ張ってきた選手が絡んでいないからじゃないですかね(笑)。それよりも準々決勝の大阪朝鮮との試合で、自陣から11本パスをつないで、相手に一回も触らせずに得点になったプレーがあったんです。それはみんなが絡んでいるので、よく話しに出ますね。『あのときのお前のパス、強かったよな(笑)』とか言って」
野洲高を卒業してから14年近く経つが、今でも当時のチームメイトと集まっているという。キャプテンの金本が音頭をとって始めたのだが、会を重ねるごとに規模が大きくなり、現在は野洲の同級生だけでなく、守山北や比叡山高校の元サッカー部、国体のチームメイトなどが集まり、大規模な同窓会のようになっている。
“野洲同窓会”に参加するメンバーは、つかの間、高校時代にタイムスリップするようだ。金本は言う。
「今はみんなで写真を撮るじゃないですか。そうすると、野洲の優勝メンバーの写真をインスタに上げて、『わかる人にはわかる、このメンバーのすごさ』みたいに書いてくれる人もいて(笑)。全国優勝したからというのもあると思うんですけど、僕もそうですし、みんなの中にも、よい思い出として残っているのはうれしいですね」
野洲の優勝は、決して高校3年間だけで成し遂げたものではない。滋賀県のセゾンFCで小学校1年生の金本と平原が出会うところから始まり、1学年下には乾貴士がいた。中学生になると、セゾンFCのジュニアユースに楠神順平と青木孝太が加わり、新たなエッセンスが注入された。
高校から田中雄大や荒堀謙次という、後のJリーガーが入学。山本監督の、選手の個性を伸ばす指導を受けたタレントが「相手の逆をとる」「全員で同じイメージでプレーをする」という考えのもと、試合をこなすごとにコンビネーションが熟成されていった。
山本監督が掲げた「高校サッカーを変える」という強烈なキャッチフレーズを体現し、日本の育成年代に大きな影響を与えた野洲高校の優勝。金本たちが出会った小学1年生時から始まった一大ストーリーの結末としては、これ以上ないものだった。
だからこそ、金本には歯がゆさを感じていることがある。それは、野洲高校がここ数年、滋賀県予選で敗退し、全国高校サッカー選手権に出ていないことだ。
高校を卒業して10年が経った、4年前のある日。金本は恩師である山本に連絡し、単刀直入に切り出した。
「なんで、最近の野洲は勝てていないんですか?」
(つづく)