連載第23回 イップスの深層~恐怖のイップスに抗い続けた男たち証言者・赤星憲広(1) 阪神のセンターを守る赤星憲広は、い…
連載第23回 イップスの深層~恐怖のイップスに抗い続けた男たち
証言者・赤星憲広(1)
阪神のセンターを守る赤星憲広は、いつも中日戦になると独特の緊張感に包まれていた。とくに打席に井端弘和が立つとなおさらだ。
井端が持ち前のシュアな打撃でセンター前に打球を運ぶ。ごく普通のセンター前ヒット。だが、赤星はいつも以上に注意深く前進して打球を抑える。視線を一塁ベースに向けると、井端が大きくオーバーランし、今にも二塁を狙う姿勢を見せている。赤星はあわててカットマンまで返球する。ボールがうまく二塁まで到達したのを見て、冷や汗を拭うのだった。
井端と赤星の密かな攻防に、スタンドでは誰も気づいていなかったかもしれない。だが、赤星にとってこのスリリングさが中日戦の日常だった。現役生活を終えて10年が経った今、赤星は苦笑交じりに振り返る。

現役時代は6度のゴールデン・クラブ賞に輝くなど、名手として知られた赤星憲広
「井端さんは僕のことを知っているから、センター前に打ったときだけめっちゃオーバーランしてくるんですよ。時にはスピードを緩めると見せかけて、急に加速することもあったり。『先輩、嫌がらせか!』と思っていましたよ。でもまあ、勝負の世界ですから。人の弱いところを突くのは当然なので」
赤星の弱みとは、ショートスローにあった。とくにセンター前ヒットの打球をカットマンまで返すという、一般的には簡単に思えるような動作が苦手だった。
なぜ井端にその弱点を知られているかと言うと、2人は亜細亜大の先輩・後輩の間柄だからだ。井端の1年遅れで赤星が入学してきた。井端は当時の赤星について、こう語っていたことがある。
「僕は大学ではセカンド、赤星は最初サードを守っていたんです。三振を取った後のボール回しで、キャッチャーからサード、ショート、セカンド、ファーストの順番で回していくはずが、赤星がショートに投げた球が僕のところに直接きたんです。『おいおい』とビックリしましたよ。秋の神宮大会も赤星の悪送球で負けましたし、あいつは相当なイップスでしたね」
赤星が送球イップスを抱えていることを知っていたからこそ、井端は大きくオーバーランを取って揺さぶりをかけていたのだ。赤星によると、中日は井端を筆頭にチーム全体でプレッシャーをかけてきたという。
「井端さんがいたから、ドラゴンズの選手はみんな僕の弱みを知っていたと思うんです。とくに落合博満監督の時はチーム全体がスキのない野球をやっていたので、常に次の塁を狙ってきました」
9年間の太く短い現役生活で、ゴールデングラブ賞を受賞すること6回。名手のイメージが強い赤星が送球に苦しんでいたことを、どれだけのファンが知っていたのだろうか。
今でこそ、赤星は当時の自分を「イップスだった」と振り返る。だが、現役時代はかたくなに「自分はイップスではない」と言い張ってきた。
「野球をやめた今だから言える話ですよ。当時は絶対に認めたくないという気持ちがありました。とくにアマチュア時代は『オレは違う』とずっと思っていましたね」
かつての赤星は内野手にこだわりを持ち続けていた。少年時代は立浪和義(元中日)に憧れた。
「PL学園時代の立浪さんの、打球を捕ってから投げるまでの一連の動きを見て、『こんな選手になりたい』と思っていました。小さい頃から立浪さんのイメージを頭に浮かべて練習をやっていました。だからやれるなら、ずっとショートをやりたいという思いは強かったですよ」
大府(愛知)ではセカンドとして2年春、ショートとして3年春に甲子園(選抜大会)に出場する。順風満帆に見えた歩みに影を落としたのは3年春の出来事だった。
甲子園球場という晴れ舞台での名門・横浜(神奈川)との一戦。立ち上がりに三遊間寄りの平凡なゴロを捕球した赤星は、送球する際に今までにない違和感を覚える。
「緊張していたからなのか、なんなのかは今でもわからないんですけど、初めて球が抜ける感覚があったんです」
指にしっかりとかからなかった送球は長身の一塁手が差し出したミットのはるか上を通過し、カメラマン席へと飛び込んだ。そのタイムリーエラーを契機に大府は失点を重ね、ワンサイドゲームになった。その前年にも赤星は甲子園で捕球エラーを犯しており、2年連続の失態の責任を背負い込んだ。
それ以来、赤星は投げることに不安を覚えるようになってしまう。
「甲子園以来、ショートゴロを捕って投げる時に、あの上に抜ける感覚を思い出して下に叩きつけるクセがついてしまったんです。それでワンバウンドになったり、引っかけすぎてファーストの左側に逸れたり......」
赤星の異変に気づいた当時の監督は「ワンバウンドで強い球を投げろ」と指導した。だが、赤星にはプライドがあった。「ワンバウンドなんて格好悪い」という思いを捨てきれなかったのだ。それでも、実際には叩きつける送球しかできない。赤星の守備への自信は日増しに揺らいでいった。
しかし、この時点では「イップス」と言うほどひどい状態ではなかった。決定的だったのは、亜細亜大に進学してからである。
伝統的に練習や競争が厳しいチームとして知られる亜細亜大で、赤星は1年から頭角を現す。だが、当時は上下関係が厳しく、先輩とのキャッチボール時に構えたグラブの位置にボールがこないと捕ってもらえないこともあった。
そうした日々で神経をすり減らすなか、「事件」は起きた。ある日、赤星は打撃練習時に1年生部員の仕事である打撃捕手を務めていた。先輩の打撃投手に赤星がボールを返球しようとした時、いつもの指に引っかかるクセが顔を出した。先輩の胸を目がけたはずのボールは、マウンド手前に設置されたL字型のネットにぶつかってしまった。それだけならまだしも、跳ね返ったボールが先輩の顔面に直撃する。赤星はすぐさまマウンドに駆け寄り、「すみません!」と謝罪した。しかし、先輩は何事もなかったように、「大丈夫だよ」と言って再び投球動作に入った。口からは血をしたたらせながら......。
「血を流しながらでも投げたのは、先輩の『気にするな』という優しさだったのかもしれません。でも、僕はそれがかえって怖くなってしまって......。余計に投げられなくなったんです」
2年秋の明治神宮大会では三塁手のレギュラーとして出場したが、東亜大戦で三塁前のボテボテのゴロを処理しようと試みたジャンピングスローが悪送球になった。赤星のタイムリーエラーが決勝点となり、亜細亜大は敗退する。
この時、赤星は「内野はもう無理だな」と悟ったという。それほど致命的なダメージに思えた。かつてはショートとしてこだわりを持ち、自信に満ちあふれていた選手でも、イップスは簡単にその自信を壊してしまう。
それまで、赤星は「野球は守りが第一」という野球観を持っていた。だが、ひとたび送球に不安を覚えると、その野球観が根底から揺らぐような気がした。
赤星は言う。
「たとえチーム内に守備が下手なやつがいても、『自分がカバーしてやる!』という強い思いを持って、守りには自信を持ってやってきたつもりでした。でも、それは全部『つもり』でしかなかった。とくに自信を持っている人がスローイングでつまずくと、ダメージが大きくなるのかなと思います」
その後、赤星の野球人生はいかに送球イップスを隠すか、という水面下での戦いが続くのだった。
(敬称略/つづく)