韓国ラグビー界レジェンドの一人が今季で日本でのプレーを最後にする。ホンダヒートSHの梁永勲(ヤン・ヨンフン、35歳)だ。2007年に日本にやって来た。日本ラグビー界がアジア枠(アジア国籍を持つ選手は常時1名、グラウンドに出場できる)を導入…

 韓国ラグビー界レジェンドの一人が今季で日本でのプレーを最後にする。ホンダヒートSHの梁永勲(ヤン・ヨンフン、35歳)だ。2007年に日本にやって来た。日本ラグビー界がアジア枠(アジア国籍を持つ選手は常時1名、グラウンドに出場できる)を導入する1年前のこと。トップリーグ(TL)昇格を目指すホンダに加入した。2年後の2009年にホンダはTLに初昇格した。チームは翌年、降格するも2011年に再昇格、だがまたも1年間で降格…。トップウェストで闘い、2015年に3度目のTLへ。11位で終え、今季は初めて残留した。

 ホンダ一筋で10年目の今季、「日本でプレーすることは最後。区切りをつけて韓国へ戻る」(梁)という決意をした。流ちょうな日本語を身につけチームを鼓舞し続けてきた梁に聞いた。

―日本で10年目、どういう気持ちで臨んでいるか?

「10年目、今季限りで韓国に戻ることを決めました。1試合1試合、最後の試合と思っている。出場できれば最善を尽くしてチームのために役に立ちたい。そういうプレーをする」

―決意した理由は?

「自分では十分、やったと思う。これ以上、日本でやることはどうかなと、自分で決めた。韓国に帰り、次のことを考えないといけない(今年12月で36歳になる)」

―ラグビーを続ける? 指導者の道を選ぶ?

「今はどちらも決まっていません。もしも韓国のチームから選手として話があればいいし。コーチの勉強もできればいい。やらせてもらえればやりたい」

―母校・檀国大で指導は?

「檀国大ではないでしょう。檀国はラグビーの強化をやめた。部には大学から『(大会での)成績は気にしない。チームは維持すればいい』と言われている。高校もコーチがいますし」

―指導者よりも選手として韓国でプレーすることになるのか?

「ラグビーを離れて仕事をすることもあるでしょう。ホンダとは話すことになるが、ホンダの韓国関連企業もあるかもしれません」

―ホンダの藤本知明ヘッドコーチは、梁が積極的に若手SH(山路健太、香山良太など)を教えてくれていると話している。

「チームを去るうえでSHを育てたい。パスを放るタイミング、力を入れすぎないようにとか。前半を終えて後半に入るときのマインドコントロールなど気づいたことを指摘しています」

―日本にやって来た時は10年間もラグビーができると思った?

「最初は7年間くらいできればなと思いました。10年間できたのは、ただ頑張ってきたから」

―2008年にアジア枠が採用されて多くの韓国代表が日本チームでプレーしてきた。しかし早い選手は1年で韓国へ戻る。またチーム移籍を繰り返すことも多い。同じチームで長年プレーしている選手は数人しかいない。成功するために必要なことは?

「3つあります。まず『日本の生活に早く慣れること』。次が『日本語を早く覚えること』。最後に『チームのプレースタイルに慣れること』。チームメートとコミュニケーションをとるために日本語は必要なのにおろそかにすると信頼が得られない。自分が入った時は、ホンダがトップウェストだったので、やりやすかった。サインプレーと動きを覚えれば対応できた。今はもっとレベルが上がっている。日本語も1年間で必死に覚えてコミュニケ―ションが取れるようになり、日本でやれる自信ができたのは3年目前後から」

―韓国では、代表で一緒に戦い、日本でもプレーした李明根(元クボタスピアーズ、ワールドファイティングブル)が延世大コーチ、高麗大では李光紋(イ・グァンムン、元東芝ブレイブルーパス、トヨタ自動車ヴェルブリッツ、サントリーサンゴリアス)と朴誠球(パク・ソング、元クボタ、NECグリーンロケッツ、ヤマハ発動機ジュビロ。ライバル延世大出身)がコーチで指導している。

「日本はラグビー先進国です。韓国のレベルは低い。日本で経験したことや理論が伝わっていくと思います」

―試合に出たときは、どういう気持ちでプレーしますか?

「チームのために尽くす。今日(9月3日、サントリーに0-50で敗戦)は秩父宮ラグビー場でした。ホンダは次に秩父宮でする試合は来年1月のNEC戦(8日)までない。次に出るチャンスがあるかも分からないので、今日が秩父宮では最後と思ってプレーした。リザーブで入ることが多いので流れを変える仕事をしたい」

 梁の決意を代表後輩の諸葛彬(CTB/NTTコミュニケーションズシャイニングアークス)は「韓国のレジェンド。まだまだできますよ」と語った。

【梁永勲 ヤン・ヨンフン】
1980年12月生まれ。韓国・京畿道にある大安中でラグビーを始めた。以後、強豪の富川北高(プチョンプック)、檀国大へ進み尚武(韓国軍体育部隊)へ。尚武で兵役を終えるも当時の韓国社会人チームはSH採用の予定が無く新規参入した大心通商(テシム)に入団した。しかし1年余りでチームは廃部。尚武時代の2003年に韓国代表に選出。代表SHでは、李明根とポジションを争いともに日本を苦しめた。代表キャップは62。15人制、7人制代表の主将も歴任。(文:見明亨徳)