神野プロジェクト Road to 2020(37)「最初に(レースを)見た時は、やっぱりきつかったです」 神野大地(セルソース)はMGC(マラソン・グランド・チャンピオンシップ)のレースを初めて見直した時、そう思ったという。 9月15日、東…

神野プロジェクト Road to 2020(37)

「最初に(レースを)見た時は、やっぱりきつかったです」

 神野大地(セルソース)はMGC(マラソン・グランド・チャンピオンシップ)のレースを初めて見直した時、そう思ったという。

 9月15日、東京五輪のマラソン男子の代表枠を決めるMGCに神野は出走した。30名いるライバルのなかから、その椅子を獲得できるのは2名のみ。季節外れの暑さのなか、レースはスタートからまさかの展開が続き、ラストでは激烈な優勝争いが繰り広げられた。白熱したレースはかつてないほどの注目を浴び、テレビでは16.4%の高視聴率を生んだ。

 そのMGCから神野は、何を得たのだろうか。



東京五輪出場をかけたMGCで17位に終わった神野大地

 MGCは、設楽悠太(Honda)がスタート直後から飛び出し、ひとり旅を始めた。誰も設楽にはついていこうとせず、それ以外の選手は10キロまで31分37秒、1キロ約3分09秒のスローペースでお互いをけん制していた。そんななか、神野は、12キロ付近で山本憲二(マツダ)と前に出て、レースを引っ張った。

「スローペースで大きな集団だったので、少しペースを上げて(集団の人数を)絞っていこうと思ったんです」

 神野が仕掛けて集団が縦長になり、分裂するかに見えたが、すぐに元に戻ってしまった。再度、神野が仕掛けたのは16キロ手前付近だった。鈴木健吾(富士通)が集団の先頭をいくなか、歩道側からスっと前に出た。ここで、また集団を絞り、2位集団を形成しようと考えたのだ。

「あそこで前に出た時、ついてきたのは服部勇馬(トヨタ)と中村匠吾(富士通)さん、大迫傑(ナイキ)さん、鈴木健吾の5人だけだったんです。このまま落ちずにいければ後続との差が開いて、この5人で最後に勝負できるかもしれないと思っていました。実際、16キロから17キロのペースが2分53秒ぐらいに上がったんです。その時はペース的に問題がなく、まだ大丈夫だったんですけど……」

 しかし、17.45キロ付近、神野は前をいく4人から遅れ始めた。

「ペースが上がった時、4人は耐えられるきつさだったんです。でも、僕はそこで限界がきてしまった。もうマジできついって感じですね。マラソンって山あり谷ありなんですけど、そのなかで決して越えてはいけないレッドゾーンがあるんです。そのゾーンを振り切っても、『あーこれは無理だ』って思い、ついていけなくなりました」

 神野は苦しそうに喘ぎながらも懸命に腕を振るが、4人についていけない。しばらく単独走で4人を追ったが、19キロ過ぎで第3集団に吸収された。レッドゾーンを越えた神野の足に再び4人に追いつくだけの余力は、もう残っていなかったのだ。

 優勝は、この4人と前をいく設楽に絞られるのかと思った。

 だが、その後、4人のぺースが落ち、26.5キロ付近で橋本崚(りょう/GMO)、大塚祥平(九電工)、藤本拓(トヨタ自動車)らが追いつき、7人の集団になった。

「僕が前に出た時ペースが上がったけど、また落ちて後続と一緒になった。それを見ているとレースって本当に運もあるなって思いました。もし、あの時、僕が前にいかなければ、もしかすると前の選手が落ちてきたかもしれない。その時々で冷静な判断をする力も大事だなってあらためて思いましたね」

 レースは、39キロ手前では、設楽を吸収し一時は8人の集団になった。

 ここが勝負と判断したのか、39キロ付近で橋本がスパートし、中村、大迫、服部がその後を追う。すると、39.5キロで中村が先頭に立ち、大迫、服部が追走した。

 東京五輪マラソンの代表枠は、この3人のうちの2名に絞られた。

「レースを見ていると、仮に僕が39キロまで我慢してこの集団についていっても、ただそこにいただけで終わったなぁと思いましたね。39キロ以降は自分の実力じゃ戦えなかった。あそこからの中村さん、大迫さん、勇馬の上がりは本当にすごかった。あの3人のなかに入るにはかなりの力が必要で、僕はその領域には入っていけなかった」

 優勝は中村が勝ち取り、2位には大迫との争いを制した服部が入った。初めて見たラストバトルのシーンが目に焼きついて離れなかった。そして、神野は、17位でフィニッシュした。

「MGCが終わって振り返ると、僕はまだ五輪の切符を手にするレベルじゃなかったということです。自分は、これまでケニアやエチオピアに行ったり、他人と異なるアプローチで練習をしてきました。やってきたことに間違いはないし、無駄ではなかったと思っています。レース前も無理かなぁという気持ちはなくて、自分にも可能性はあると信じていました。チャレンジできる領域に入っていたと思うんですけど、実際走ってみると、東京五輪は今の自分の2段階、3段階も上の目標を掲げていたのかなと思います」

 神野がマラソンに転向したのは、青学大を卒業してから1年後、2017年になってからだ。その時、東京五輪という目標を掲げ、中野ジェームズ修一の下でマラソンを走る体づくりを本格的に始めた。先を行くランナーに追いつき、追い越すには同じことをしていては前に行けない。そのためにプロになり、アフリカで合宿をするなど独自の練習方法で努力を積み重ね、この日のために準備してきた。

「でも、甘くなかった。たとえば、勇馬は僕が大学3年の時からマラソンを意識して練習していたんです。でも、僕は卒業して2年目からマラソンに取り組んだ。勇馬は高校からエリートで、大学でも結果を出してきた選手。そういう選手が大学の時から準備してきているのに、エリートじゃない僕が2年ちょっとで東京五輪出場という目標は、いま思うとやっぱり大きすぎたかなと」

 これまで神野は、努力すれば手に届く目標設定をしてきた。青学大に入学した当初は、4年間で一度、箱根駅伝を走れればいいかなというレベルだった。努力を積み重ね、原晋監督のいう「半歩先の目標」をクリアし、大学2年の時には箱根を走った。

 次の目標は学生界のトップランナーではなく、「青学大内でエースになる」という目標を設定した。ストイックに競技に打ち込み、コツコツと努力して目標を達成し、成長してきた。その繰り返しの陸上人生だった。

「僕は、デカい目標を掲げる陸上人生ではなかったんです。みんなよりも時間をかけて身近な目標をクリアしてきたタイプ。そう考えると、五輪への初めての挑戦でいけるタイプじゃない。中野さんにも『神野は1回目の挑戦でいけるほど強い選手じゃない。そういう選手もいるけど、神野はそういうタイプじゃない』と言われました。そうだなってあらためて思いましたね。僕が五輪に出られるようになるのは、五輪への挑戦を2回、3回続けてようやくかなぁって思っています」

 MGCが終わって2週間、神野はほとんどノーランで過ごした。レースのダメージもなく、翌日から練習できる状態だったが、あえて休んだ。

「自分のなかから湧き出てくる気持ちを信じるというか、それがどういうものなのかって思って。だから、とくに何もしなかったんです」

 MGCが終わったあとは、「MGCファイナルは、まだ考えられない」と語っていた。神野の自己ベストは2時間10分18秒だ。だが、MGCファイナル(3大会)で越えなければならない派遣設定タイムは2時間5分49秒と約4分半ものタイム差がある。7分台、8分台をコンスタントに出していれば一発逆転の可能性も考えられるが、マラソンで4分を縮めるのはゼロではないが限りなく低い。そのことを自覚しているからこそ慎重な発言に終始した。

 2週間という時間をかけて、神野は自分の気持ちと向き合った。

 MGCファイナルチャレンジに挑戦するのか。東京五輪以降、何を目標にしてやっていくのか。

「ざっくりですけど、自分のなかで決めました」

 神野は、すっきりした表情で、そう言った。はたして、その決断とは……。