篠塚建次郎インタビュー(前編) 世界ラリー選手権(WRC)と、世界一過酷と言われるパリ・ダカールラリー(通称パリダカ)の両方で日本人ドライバーとして初めて総合優勝を飾った篠塚建次郎。日本ラリー界のレジェンド、篠塚建次郎が自身のドライバー…

篠塚建次郎インタビュー(前編)

 世界ラリー選手権(WRC)と、世界一過酷と言われるパリ・ダカールラリー(通称パリダカ)の両方で日本人ドライバーとして初めて総合優勝を飾った篠塚建次郎。



日本ラリー界のレジェンド、篠塚建次郎が自身のドライバー人生について語った

 日本ラリー界のレジェンドは2007年を最後に競技の第一線から退き、学生たちとともにソーラーカーや電気自動車などのレースイベントに出場していた。
 2018年12月、70歳を迎えた篠塚は12年振りにアフリカ・サハラ砂漠でのチャレンジを開始した。モナコからセネガルのダカールまで約6500kmもの距離を走る『アフリカ・エコレース』。それが新たな挑戦の舞台だ。
 しかし、かつてのように自動車メーカーが全面バックアップし、資金と人材が豊富にそろい、優勝を狙える態勢ではない。完全なプライベーターで、スポンサーは自分の足でかき集め、苦労の末に再びサハラ砂漠にやって来た。
 そして篠塚は、アフリカの広大な砂漠を見事に完走した。今年11月、またひとつ年を重ねる篠塚だが、その情熱はまったく衰えることがない。「またアフリカで走りたい。僕にはまだパワーが残っているんです」と語る篠塚に、アフリカに挑み続ける理由を聞いた。

――篠塚さんがラリードライバーをするようになった経緯を教えてください。

 僕は大学に入学した直後、友人に誘われラリーを始めました。プライベーターとして国内ラリーに参加しているうちに、いろんな関係者と知り合いになり、たまたま三菱の方に「来年、うちのマシンに乗らないか」と声をかけられました。

 まずはナビゲーターからスタートし、大学4年の時には三菱の契約ドライバーとなりました。だから大学を卒業する時には、そのまま契約ドライバーとして三菱が迎えてくれると思っていたんです。契約ドライバーといえばお金もいっぱいもらえて、好きなラリーに専念できて、女性にもモテると思っていました(笑)。

 ところが、いざ就職の時期になると、三菱の方が「ラリードライバーという職業はまだ日本にない。それに会社が来年ラリーをやらないと言えば、それで職業がなくなってしまう。社員になるのがいいんじゃないか」と言われました。

 結局、普通に入社試験を受けて三菱自動車の社員になり、平日は普通の業務をこなし、週末は国内ラリーに出場するという生活を送ることになりました。

――アフリカとの出会いはいつだったのですか?

 1976年に初めてアフリカのケニアを舞台にしたサファリ・ラリーに出場するチャンスを得た時です。当時、僕はサファリにはすごく憧れていました。なぜかといえば、石原裕次郎さんが主演した映画『栄光への5000キロ』(1969年公開)がカッコよかったからです(笑)。

――WRCの一戦として行なわれた76年のサファリでは、日本人初の入賞を飾り、現地では「ライトニング・ケンジロー」と呼ばれたそうですね。

 WRCで初めて6位に入賞したことで、当時は話題になりましたね。サファリには77年も出て10位で完走したのですが、その頃には自動車メーカーは排ガス対策のためにモータースポーツどころじゃなくなってしまったんです。僕が所属していた三菱はラリーをやめましたが、トヨタやニッサンもみんなモータースポーツから撤退してしまった。それから86年にパリダカに出場するまで、サラリーマン生活を送ることになりました。

――その8年間は何をしていたんですか?

 国内の販売促進部で、特別仕様車を企画したり、ディーラーの展示会を企画したり……。ドライバーとして走ることはなかったですね。会社をやめることも随分考えましたが、国内を見渡すと、どのメーカーもモータースポーツ活動をしていません。今は我慢するしかないと自分に言い聞かせていましたが、「このままドライバー人生は終わってしまうのかな……」という不安を抱えながら毎日を過ごしていました。それを救ってくれたのがパリダカでした。

――排ガス規制への対策にめどがついた各自動車メーカーは、80年代に入ると再びモータースポーツの活動を活発化させます。三菱も1983年よりパリダカにパジェロで参戦を開始しましたが、中心となったのはフランスの三菱販売店で、ドライバーはすべて外国人でした。それをどのように見ていたのですか?

 なんか遠いところでやっているなあ、という感じでしたね。83年は初めてパリダカに出場して11位でしたが、84年は3位、85年には優勝しちゃったんです。ライバルのポルシェを倒して日本の三菱が勝ったということで、ヨーロッパではそれなりに話題になったんですが、国内ではアフリカでフランス人ドライバーが優勝したといっても全然ニュースになりませんでした。

 社内では「やっぱり日本人が乗らないといけない」ということになり、誰かいないかとなった時に僕に声がかかりました。もう8年も走っていないので腕は錆びついているかもしれないけど、いいじゃないって(笑)。でもパリダカは、これまで僕が走ってきたラリーとはちょっと違うんですよ。

――パリダカはラリーレイドと呼ばれ、マラソンのようなイベントですよね。

 僕はラリーでも、ずっと短距離走のほうをやってきました。サーキットのレースでたとえるならば、短距離はスプリントのF1、長距離は耐久レースのル・マン24時間というイメージですね。パリダカは長距離走に冒険を足したようなイベントでしたので、自分の走るラリーじゃないなと最初は感じました。でも何もしないよりはマシだと思い、86年はとりあえずパリダカを見てくるつもりで出かけていきました。

 出場したのは市販車クラスで、マシンは市販されているパジェロのディーゼルカーにカラーリングしただけ。いわば格好だけワークスマシンで、中身は市販車でした(笑)。その年はとりあえず完走して、「来年はどうする?」と聞かれたのですが、あまり乗り気じゃなかった。

――ようやく実戦を復帰できたのに、どうして?

 マシンがあまりに遅すぎて……。僕らのマシンは砂漠で時速70キロぐらいしか出ないのですが、ワークスマシンは150キロです。抜かれてばっかりだから全然面白くない。そう会社に言ったら、「じゃあ、速いクルマを準備する」ということになりました。

 でも、お金がかかるため新しいクルマは用意できないので、前年にフランス人が乗ったパジェロを直して走ることになりました。そのマシンで87年に出場したら、3位に入ることができました。この年のパリダカはNHKが放送していて、毎日のスポーツニュースで「今日、篠塚は3位で……」と取り上げてくれたんです。それがきっかけでラリーがメジャーになっていきました。

 また、87年はF1でも中嶋悟さんがレギュラードライバーになり、アイルトン・セナと組んで一緒に走ることになりました。それでF1とラリーが盛り上がっていき、いろいろなメディアでモータースポーツが取り上げるようになっていきました。

――篠塚さんがパリダカで走らせていた『パジェロ』も大人気になりました。当時は若者の憧れの的で、最盛期の92年には国内約8万4000台を販売しています。

 それまでパジェロの購入は自衛隊や営林署がメインで、一般のお客さんにはほとんど売れていなかったんです。毎月数百台しか売れなかったのに、毎月2000台とか3000台も売れるようになっていきました。苗場にスキーに行く時は、パジェロで行かないと恰好がつかないという時代でした(笑)。あそこから日本のSUVブームは始まりました。

 パリダカのおかげで三菱はイケイケになり、僕も88年には2位になりました。3位、2位と来たので、「次は優勝だぞ!」と思ったのですが、なかなかうまくいかなかったですね(笑)。

――初優勝はパリダカ初参戦から12年目の97年までかかりました。

 それでも毎年、それなりの成績(92年と95年は3位)を残すことができたので話題にはなっていましたね。あと自分ではもともと短距離も好きなので、88年からWRCにも参戦し、91年にはコートジボワール・ラリーに出場して、日本人初の優勝を飾ることができました。

 さらに94年と95年には『ランサー・エボリューション(通称ランエボ)』でサファリ・ラリーに参戦し、2年連続で2位になりました。自分としては理想的な形でラリー活動ができましたね。

――WRCとパリダカで日本人初の優勝という偉業を達成し、かなりのボーナスをもらったんじゃないですか?


今年行なわれた

「アフリカ・エコレース」に70歳で挑戦し、完走した篠塚(写真は篠塚氏提供)

 いまだに後悔しているのは、もっとお金をもらっておけばよかったなあということですね(笑)。もちろん社長から表彰され、金一封はいただきましたが、豪華な夕食を一回したらなくなってしまうようなものでした(笑)。

 でも社員ドライバーにはいい面もたくさんありました。たとえば、アジア・パシフィックラリー選手権に出場したいとなれば、「これから市場として有望なアジアで宣伝効果があるので、とてもいい販促になる。ついては、ドライバーは篠塚建次郎で、予算は何億で……」と企画書をつくって、上にあげるんです。そういうことを社員はできるんですけど、契約ドライバーはできないんですよね。

 自分でプランを組んで、予算を決めることができたので、会社のお金はずいぶん使いました(笑)。でもパジェロやランエボのブランドを確立することができましたので、その何百倍も返したという自負はありますね。

――社員ドライバーとして順調にキャリアを積み重ねてきたわけですが、どうして三菱を退社することになったのですか?

 2000年のパリダカで大きな事故を起こしてリタイアしたのですが、その前後に、私と一緒にパリダカをやっていた先輩が亡くなったりして、なんとなくさみしくなってしまったんです。

 それでラリーに専念するためにフランスに駐在員として出してくれと頼んだんです。それが社内で通って、01年と02年はパリに住みながらパリダカに参戦しました。

 02年が終わったあと、三菱の方から「そろそろ引退したほうがいいんじゃないか」と言われましたが、「自分としてはまだまだ現役で走りたい。引退するかしないかは自分で決めたい」と伝えたのですが、話し合いは平行線のままでした。このままではラリーを続けることができなくなると考え、02年の夏に三菱に辞表を提出することを決断しました。

(後編につづく)

篠塚建次郎
しのづか・けんじろう/1948年11月20日生まれ。東京都出身。大学卒業後、三菱自動車の社員ドライバーとして、世界ラリー選手権 (WRC) とパリ・ダカールラリーで日本人初の優勝者となった。2002年に三菱を退社後も07年までパリダカに出場する。08年には南アフリカで開催された国際的なソーラーカーラリー『サウス・アフリカン・ソーラー・チャレンジ2008』で優勝。翌年にはオーストラリア大陸で開催された世界最高峰のソーラーカーレース『ワールド・ソーラー・チャレンジ』でも優勝している。2018年、アフリカ・エコレースに参戦し、12年振りにサハラ砂漠での挑戦を開始した。70歳になった現在は山梨県の清里で夫人とともにペンションを経営しつつ、日々トレーニングを重ね、現役ドライバーとして活動している。