2020東京五輪に向け「スポーツ業界で働きたい!」と思っている学生や転職を希望している人が多くなる中、仕事の実際を知ることが意思決定には重要となる。そこで、スポーツを仕事としている人にインタビューし、仕事の“あれこれ”を聞く。
猿人 クリエイティブディレクター 名前:野村志郎(のむら・しろう)さん 職業歴:2012年〜
仕事内容 ・社会や顧客の課題を解決するクリエイティブ開発 ・企業のブランディング ・映像制作・広告制作
取材・文/佐藤主祥
開幕まで残り1年を切った2020年の東京五輪・パラリンピック。会場運営などをチェックするテスト大会の開催が本格化し、五輪機運が盛り上がりを見せている。同大会のゴールドパートナーである野村ホールディングスも、各地でさまざまな競技イベントを開催するなど、4年に1度のスポーツの祭典に関連した取り組みを企画・実行中だ。
その中で、スポーツの素晴らしさを真正面から捉え、世の中に大きなメッセージを投げかける動画の制作を立案。2018年1月に、年齢や性別、障がいなど異なるバックグラウンドを持つ7名が、同時に自己ベストの更新を目指す姿に迫った『みんなの自己ベスト|My Personal Best』を公開した。
この動画のクリエイティブを担当したのは、企業や商品の映像を企画・制作する会社、猿人のクリエイティブディレクターである野村志郎さん。2012年の設立当初から現在に至るまで、中心的存在として活躍している。
同社はナショナルクライアントを含む、多くの企業のブランディングを手掛けており“どこで、誰に、どんなメッセージを送るのか”といったコミュニケーションをトータルでデザインすることを重視。それによって、数々の広告や映像で国際広告賞・国内広告賞を受賞。“ゼロイチ”に長けた、国内有数のクリエイティブ集団だ。
代表取締役社長を務める中澤純一さんが掲げた『おもしろい仕事。おもしろい会社。』というスローガンに共感し、多くの人の心を動かす、そんな仕事をしたいという同志が集結している。
「弊社は中澤と同じ志を持った人間が集まっている企業です。基本的にアイデアやクリエイティブを大事にしているので、ビジネスの規模というよりは、アイデアそのものを尊重し、面白く、多くの人を幸せにできるような活動を目指しています。企画段階で“誰に向けたメッセージなのか”、“実際に見た人に伝わるのか”というのをしっかり考え、決まれば全力で実現していく。企画の立案だけで終わるのではなく、制作し、みなさんに見てもらうまでがゴールです」 こうした“モノづくり”に対するこだわりから、昨年1月に生み出されたのが『みんなの自己ベスト|My Personal Best』。東京五輪・パラリンピックへの機運を高めていくための広告として作られたものだが、その枠組みを超え、普遍的なメッセージを感じさせる作品に仕上がっていることから、2018年度のグッドデザイン賞に選出された。
この作品では、記録が伸びずに挫折しそうになっている9歳の小学生、70歳を超えて今なお記録を伸ばすことに挑むシニア、障がいを抱えながらも新しい自分の可能性を広げたい車いすの選手など、バックグラウンドの異なる7名がそれぞれの自己ベストを超えることに挑戦する姿に密着。16年リオデジャネイロ五輪200メートルバタフライで銅メダルを獲得し、同年限りで引退した星奈津美さんが挑戦者兼コーチとして出演。それぞれの自己ベストタイムを乗り越えるため、1カ月間のトレーニングを実施した。
野村ホールディングスが、東京大会・競技のサポートをしていくことを発信するための取り組みとして、その中の動画制作を担当した猿人だが、広告というよりはドキュメンタリー要素が強い印象を持つ。その理由について、野村さんはこう話す。
「現代社会におけるスポーツの果たす意義、役割をもっと掘り下げていって、映像を通して伝えることはできないか、と考えたんです。そこで『そもそもスポーツの魅力って何だろう?』と思った時に、試合に勝つとか、世界記録を目指すとか、人間の限界に挑むとか、いろんな要素が出てきました。そこを目指してアスリートたちがしのぎを削る姿、生まれるドラマを見て、私たちは感動し、応援する。それがスポーツの魅力だな、と。
その中で、ふと『自己ベスト』という言葉が頭に浮かびました。五輪を目指すようなトップアスリートはもちろん、小さな子どもや60歳を超えるシニアの方だって、スポーツをしている人たちは全員それぞれの自己ベストを乗り越えるために努力を続けている。自分ができないこと、たどり着けない場所を目指して一生懸命頑張っている姿って、本当に素敵で尊いことだなって思うんです。それを映像で表現したい。こうした想いが、この動画制作の始まりでした」
野村さんが感じるスポーツの魅力、それを映像で伝えるのに最適だったのが“水泳”だった。理由は、一つのプールの中で、複数の競技者が自分の記録更新に挑む姿をとらえることができるからだ。加えて、五輪だけでなくパラリンピックの認知を拡大する意図もある。
実際にパラ・パワーリフティング日本ジュニア代表の奥山一輝さん、車いすバスケットボールの西村元樹さん、同じく車いすに乗って生活している小学4年性の河田凌大くんが出演。障がいを持つ子どもや選手たちが、水泳を通して自分の壁を乗り越えていく姿を描くことで、多くの人に“パラアスリートを応援したい”と感じてもらうことに繋がっていく。そういったパラ競技に対する想いも、この動画に込められている。
この動画撮影に参加した7名には、それぞれ企画に挑戦する明確な理由があった。例えば、スイミングスクールに通っている小学4年生の中ノ内寧咲さんは“記録が伸びないから水泳をやめようと思っています”と切なそうに語っており、70歳で現役のトライアスロン選手である和田雅幸さんは“いくら頑張っても年々記録が落ちてしまう。現状維持が精一杯”と悩みを打ち明けた。
そして、本番当日。自分の自己ベストに挑戦するべく、7名がスタートラインに立った。しかし、必ずしも全員が記録を更新できるかは分からない。もしかすると誰も目標を達成できない可能性もある。それでもぶっつけ本番で撮影に臨んだ、その真意は何なのだろうか。
「確かに記録というのは簡単に伸びる訳ではないですし、スポーツは頑張っても必ず努力が報われるかといえば、それは違うと思います。でも、簡単に乗り越えられないからこそ、その挑戦には価値がある。比べてはいけないと思いますけど、五輪もそうで4年間もの長い間、その一瞬のために真剣に競技と向き合い、練習を積んできた。それでも結果を残せないことだってある訳じゃないですか。
だからこそ、その選手の努力や想いに共感して、周りも必死に応援することができる。記録が出れば最高ですが、本番に向けて必死に努力を続けてきたプロセスは、何にも代えがたいものがある。だからうまくいかなかったからもう一度やる、ということはせず、本番一発勝負で臨みました。仮に全員が自己ベストから程遠かったとしても、ありのままを伝えようと初めから思っていました」
その結末は、記録だけでは表せないほど充実した表情が各挑戦者から満ちあふれ、感動的なシーンで終わりを迎えていた。1カ月もの間、共にトレーニングを続けてきた仲間だからこそ、全員がゴールした瞬間、互いの健闘を称え合い、祝福していた。スポーツを通じて、挑戦者と応援する人たちが最終的に一体となる。そんなストーリーを描きたかったのかもしれない。(前編終わり)
《後編はこちらから》
※データは2019年10月10日時点