PLAYBACK! オリンピック名勝負―――蘇る記憶 第11回2020年7月の東京オリンピック開幕まであと9カ月。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を…

PLAYBACK! オリンピック名勝負―――蘇る記憶 第11回

2020年7月の東京オリンピック開幕まであと9カ月。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。

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 2000年シドニー五輪競泳、女子100m背泳ぎ・中村真衣の銀メダル獲得。それは2大会越しの夢を実現させたものだった。



シドニー五輪女子100m背泳ぎで銀メダルを獲得した中村真衣(写真左)

 4年前の1996年のアトランタ五輪、当時も日本女子競泳陣のメダル獲得への期待は高かった。代表選考会だった4月の日本選手権で、高校生たちがその時点でのシーズン世界1位の記録を次々にたたき出し、大会直前の世界ランキングで、3位以内に6人が名前を連ねていたからだ。高校2年生だった中村は、日本選手権で2位となりアトランタ五輪に挑んだ。

 だが、初めて経験する大舞台は厳しかった。

 中村はアトランタ五輪の100m背泳ぎの予選で、全体の4位となり決勝進出。決勝では最初の50mを3番手で折り返しながらも、最後で逆転されてしまい、1分02秒33で惜しくも4位にとどまった(アトランタ五輪までは予選と決勝の2レースで行われていた)。レース直後に中村はこう話していた。

「まだ用意をしてないのに"テイク・ユアー・マーク"と言われて、焦ってスタートしてしまいました。前半から行くレースが私の持ち味なのでそれを出したかったのですが、後半はバテてしまいました。ただ、決勝に残れば、と思っていたので、4位には満足しています」

 この前日まで、女子競泳陣は期待に反して決勝進出者はゼロだっただけに、不振から脱出するカンフル剤になったことについて、中村は前向きな発言をしていた。

 だが後日、「アトランタはメダルを狙っていたんです。3位になったのはまったく知らない南アフリカの選手(マリアンヌ・クリール、予選と決勝でアフリカ新を連発)だったし、自己ベスト(1分01秒68)を出していれば3位になっていたので、悔しかった」と、本音を吐露してもいる。

 中村は、小学6年生までバタフライの選手だった。だが、キツイ練習がイヤで、6年生の夏のジュニアオリンピック後に練習を何週間も休んでしまった。そして、当時指導を受けていた竹村吉昭コーチに「好きな背泳ぎなら練習に行ける」と相談。それ以来、背泳ぎの選手になった。

 中学1年生で日本選手権に初出場し、中学3年生だった94年には、日本選手権100mで初優勝。すると、中村本人は「ジュニアの遠征メンバーに選ばれたいと思っていた」ところへ、いきなり世界選手権代表に選出された。結果は、100m11位、200m8位だった。

「そこで初めて世界を知りました。スイミングマガジンに載っている選手の泳ぎを見て、『すごいな......』と。『いつか自分も世界大会の決勝に残ってメダルを獲りたい』という思いが芽生えたのは、あの時です」

 中村は、アトランタ五輪では決勝に残り、「心の中で代表になれたことに満足していた部分があった」と言う。だが、僅差で敗れてメダルを逃した悔しさは大きかった。また、どんなものかもわからなかった五輪でメダルに手が届くと実感したことで、「絶対に五輪でメダル」と決意を新たにした。

 それが、98年世界選手権での銀メダル獲得につながった。翌99年には、シドニーで行なわれたパンパシフィック選手権で優勝。00年4月の日本選手権でも1分00秒78の日本記録を出して万全な状態で、シドニー五輪にメダル候補として臨んだ。

 だが、緊張感は大きかった。

「レースの前日は『明日の今ごろはもう競技が終わっているんだな』と考えてしまい、レース当日の招集所では『10分後にはもう結果がわかっているんだ』と思うと、すごく怖くなってしまいました。しかも、100m背泳ぎは競技2日目の最初の種目だったので、一緒に出場した稲田法子ちゃんと『どうしよう、もう帰りたいよぉ』と言っていたんです」

 それでも、予選は最終第6組で泳ぎ、1分00秒88でゴールして2位に0秒30差をつける1位通過。同日夜の準決勝では全体2位で決勝進出を決めた。だが、16歳のディアナ・モカヌ(ルーマニア)が1分00秒70を出し、強力なライバルとして浮上してきた。

 翌9月18日の決勝。中村は自身の持ち味であるスプリント力を生かし、予選を上回る29秒17で前半の50mを泳いだ。賀慈紅(中国)が当時の世界記録1分00秒16を出した際の前半を0秒37上回るハイペースだ。隣の4レーンを泳ぐモカヌには0秒63差をつける飛び出しだった。

 後半、モカヌが猛烈に追い上げてきたが中村は冷静だった。

「彼女がすごい勢いで追い上げてきているのは見えていたけど、それを気にしないで焦らず、とにかく自分の泳ぎをしようとだけ考えていました」

 ゴール板にタッチしたあと、中村はすぐに電光掲示板を見た。タイムは1分00秒55──。自己新だと確認すると「ヨシッ」と思った。だが次に確認した順位の数字は"2"。「『えっ?』 という感じだった」と苦笑する。後半の50mを30秒41で泳いだモカヌが、五輪記録を0秒40更新する1分00秒21で先着していたのだ。

「悔しさはあったけど、満足していました。もちろん金を狙っていたけど、あの緊張の中で自分のレースができて、しかも自己ベストで......。それは、満足してもいいですよね。アトランタは4位で惜しかったけど、もしあそこで銅メダルを獲っていたら、『メダルって獲れるものなんだ』と思って、気持ちが緩んでしまっていたかもしれません。

 でも、あそこで悔しさを感じて『絶対にメダルを獲るんだ』と思い、メダルを狙いにいった大会がシドニーでした。そこで手にしたメダルだったから、すごくうれしかった」

 アトランタで苦い経験をした中村は、シドニーでは、笑顔で銀メダルを手にした。

「私は母子家庭で、高校を卒業した時にはお金の面で親にすごく迷惑をかけると思って大学をいろいろと探したんです。でも、五輪でメダルを獲るにはやっぱり中央大学しかないと思い、母にも相談すると、『あんたがそうやって頑張るならいいよ』と言ってくれました。

 竹村先生も、単身で東京についてきてくれました。大学1年の時は、(同じ大学の田中)雅美ちゃんも(源)純夏も日本記録を出せているのに私だけ出せなくて、すごく落ち込んだんです。その時にふたりともすごく励ましてくれて、母もすごく励ましてくれたので頑張ることができて、2年ではほんのわずかだけど日本記録を更新できました。

 周りから見ればずっと順調に来たように見えるだろうけど、本当は心の波もいろいろあったので、シドニーのメダルは、家族や竹村先生や、周りのみんなの支えがあって頑張ってこられたからこそ獲れたものだと思っています」

 中村のメダル獲得は、その後の日本競泳陣が五輪や世界選手権で複数メダルを獲得するチームに成長していく契機になる活躍だった。