西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(44)

【司令塔】ヤクルト・古田敦也 後編(前編の記事はこちら>>)

【「1993年は4タテで勝つつもりだった」】

――1992(平成4)年は善戦むなしく3勝4敗でライオンズに敗れたものの、スワローズは1993年もセ・リーグを制し、日本シリーズに進出。相手は悲願のライオンズでした。この年は、戦前の手応えをどのように感じていましたか?

古田 全然、行けると思っていましたよ。(ジャック・)ハウエルがいて、広沢(克己/現・広澤克実)さんがいて、池山(隆寛)がいて、僕がいて、野手陣はメンバーがそろっていたし、投手陣も川崎(憲次郎)が戻ってきていましたからね。この年は「4タテで勝ってやろう」と思っていました。実際に4タテできるとは思っていないですよ。でも、「ひとつも負けたくない」って思っていたし、自信もありましたしね。




1993年の日本シリーズ第4戦に先発した川崎とキャッチャーの古田 photo by Sankei Visual

――この年、ライオンズではオレステス・デストラーデ選手がメジャーに復帰。ライオンズ打線に大きな穴が開きました。

古田 いや、それはあまり感じませんでしたね。デストラーデが抜けても、鈴木健とか代わりの選手が出てくるわけなんで、またその選手を研究するから、「デストラーデが抜けたぞ!」という感覚はあまりなかったです。

――1992年と1993年でシリーズに臨む際の感覚の違いなどはありましたか?

古田 1992年は「いっちょ、やったるで」という感じだったけど、実際に第7戦まで戦ってみて勝てるチャンスもあったし、「必ずしも負ける相手ではない」ということはわかっていました。それに、1993年は自分たちも力をつけているのがわかっていたし、「優勝しよう!」と思ってセ・リーグで優勝したから、「シリーズでは絶対に西武に勝つ!」って思っていましたよ。1992年は「勝てたらいいね」という感じだったけど、1993年は「絶対に勝つ!」。そんな違いがありましたね。

――たった1年で、劇的に心境が変化したんですね。

古田 そうですね。本当にひとつも負けたくなかった。だから、(ヤクルトの2勝0敗で迎えた第3戦で)西武に負けた時には「うわ、負けた」って思いましたもん。「力は絶対にこっちのほうが上だ」と思いながら戦っていました。

【「野村と森の代理戦争」という言葉はマスコミ用語】

―― 一方でこの2年間は、ライオンズの伊東勤捕手との比較で、「司令塔対決」とか、「代理戦争」と称されていました。この点について、古田さんはどうお考えでしたか?

古田 確かに「野村克也監督の代理」みたいな言われ方をしていたけど、僕自身は何も思っていなかった。それに、別に「伊東さんと戦っている」という意識もなかったです。考えていたのは「どうやって西武打線を抑えるか?」ということだけでしたから。

――「打者・伊東勤」に関しては意識もするし、対策も練るけれど、「捕手・伊東勤」については、特別な意識はなかったということですね。

古田 はい。「代理戦争」というのはマスコミ用語だと思っていました。マスコミは「野村(克也)対森(祇晶)」をあおる意味でそういう言葉を使っていただけで、僕は西武打線しか意識していなかったですね。それに、伊東さんはすでにすごい実績をお持ちの大先輩でしたから、こちらから意識して挑んでいくということもなかったです。

――さて、1993年の日本シリーズに話を戻します。スワローズの2勝1敗で迎えた第4戦。強風の神宮球場のマウンドに立ったのは川崎憲次郎投手でした。この試合は1-0でスワローズが勝利して、3勝1敗と王手をかける試合です。ここで、シリーズ屈指の名場面がありました。

古田 センターの飯田(哲也)がダイレクト返球で、ホームでアウトにした場面ですね。飯田はベンチの指示を無視して、勝手に前に出たんですよね。僕はただ、(打者の)鈴木健を抑えることだけを意識していたので、飯田の守備位置のことは気づきませんでした。

――鈴木健選手の打球はセンター前の痛烈なヒット。この打球をワンバンドで捕球した飯田選手からの送球はホームを守る古田さんに向かってのダイレクト返球でした。

古田 飯田が投げた時、「タイミング的にはアウトだな」と思いました。とはいえ、そこまで余裕があるわけでもなかったので、最初に考えたのは「左足からブロックにいくと、回り込まれる可能性があるな」ということでした。それで、右足でブロックにいったんです。


映像を見ながら当時を振り返る古田氏 photo by Hasegawa Shoichi

 

――ホームに突進するサードランナー側の足ではなく、反対側の「右足でブロックをしよう」と瞬時に考えたのですか?

古田 そうです。左足からブロックにいくと、回り込まれて追いタッチになる可能性がある。でも、少しだけ余裕があると思ったので、僕は右足を持っていった。そうすると、ランナーと正対する形になるんです。激しいスライディングを受けたとしても、足のレガースでブロックすればいい。タックルされても、そのまま後ろに飛べばいい。そう考えたんです。つまり、保険をかける余裕があったということです。

――その余裕というのは、時間の余裕ですか、気持ちの余裕ですか?

古田 時間です。「自分が落球さえしなければアウトになる」というイメージは、すでにできていましたから。アウトになった瞬間はやっぱり嬉しかったですね。

【日本シリーズは勝たなければ意味がない】

――その後、3勝3敗で迎えた第7戦。3-2で迎えた8回表、ワンアウト三塁の場面。三塁走者は三塁打を放った古田さんでした。この時、古田さんは次の打者広沢さんのショートゴロの間にホームインしています。これが、いわゆる”ギャンブルスタート”ですね。前年のシリーズ第7戦での、広沢さんの甘いスライディングの反省から生まれた戦術でした。

古田 この時、僕が打った(センターへの)打球は本来ならばツーベースヒットだったんです。でも、「なんとか追加点がほしい」という場面で、クッションボールがうまく跳ね返ってこなかったのが見えたんで、イチかバチか思い切ってサードに突入してスリーベースになりました。でも、ベンチからはギャンブルスタートのサインは出なかったんです。

――せっかく、ギャンブルスタートの練習をしてきたのに、ここではベンチからのサインは出なかった?

古田 はい、サインは出ませんでした。「そりゃ、ないでしょ」と思いましたよ(笑)。ベンチからのサインが出ないから、三塁コーチに耳元で「行きますから」と伝えました。本来ならよくないですよ、サイン無視ですから。でも、興奮状態にありましたからね。

――その結果、見事にギャンブルスタートが決まり、待望の追加点を奪って4-2に。結果的にこれがダメ押し点となりました。それにしても、どうして野村監督はこの場面でギャンブルスタートのサインを出さなかったのでしょうか?

古田 実はこの前の試合に伏線があるんです。この前日の第6戦。サードランナーが広沢さんの場面でギャンブルスタートのサインが出ているんです。

――スワローズの3勝2敗で迎えた第6戦の9回表。1-4のビハインドで、チャンスが続いている場面で登場したのが代打の八重樫幸雄選手でした。この時、八重樫さんが放った打球は痛烈なレフトライナー。スタートを切っていた三塁ランナーの広沢さんが慌ててベースに戻ってタッチアップを試みるものの、結局はホームに突入はできませんでした。

古田 そう、その場面です。普通ならば犠牲フライでタッチアップをして追加点が入っている場面。でも、ギャンブルスタートのサインが出ていたから、広沢さんはホームインできなかった。この失敗があったから、ベンチからのサインはなかったんです。当時、この場面は「ヒットエンドランのサインが出ていた」と解説されていたけど、ヒットエンドランじゃなくてギャンブルスタートだったんです。

――さて、この2年間はトータルで全14試合を戦い、両チームとも7勝7敗で一度ずつ日本一に輝いています。両者の決着は着いたのでしょうか? 一体、どちらが強かったのでしょうか?

古田 うーん、よくひとまとめにして「どちらが強かったのか?」と聞かれるけど、それはもうよくわからない話でね。強いて言えば、こっちの戦い(1992年)とこっちの戦い(1993年)があったという感じですね。

――では、この2年間の戦いを通じて、古田さんが学んだこと、身につけたことは何でしょうか?

古田 やっぱり、「日本シリーズは勝たなければ意味がない」ということが一番です。言い方は悪いけど、しっかり策を練って、いかに相手を罠にはめていくかということを2年間で学びました。この修羅場の経験があったから、その後3回(1995、1997、2001年)も日本一になれたんだと思います。

(つづく)