スポルティーバ・新旧サッカースター列伝 第5回サッカーのスーパースターの中には、その才能をいかんなく発揮しながら、タイトルに恵まれなかった悲運の選手たちがいる。サッカースターやレジェンドプレーヤーの逸話をつなぎながら、その背景にある技術、戦…
スポルティーバ・新旧サッカースター列伝 第5回
サッカーのスーパースターの中には、その才能をいかんなく発揮しながら、タイトルに恵まれなかった悲運の選手たちがいる。サッカースターやレジェンドプレーヤーの逸話をつなぎながら、その背景にある技術、戦術、社会、文化を探っていく連載。第5回はかつてのポルトガル黄金時代の象徴だった、あの選手だ。
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陽の当たる坂道
1972年、マヌエル・ルイ・コスタは、ギュンター・ネッツァーが世界にその名を轟かせた年に産まれた。1994年、かつてロベルト・バッジョがプレーしたフィオレンティーナの10番を背負う。
2004年のユーロでポルトガルをけん引したルイ・コスタ
ルイ・コスタにも悲運の天才というイメージがあるが、ネッツァーやバッジョにあった陰影がない。それは外から見ている者の受け取り方でしかないのだが、ルイ・コスタの場合、たとえそこがきつい登り坂であっても、ずっと陽は当たっていたような印象なのだ。
ポルトガル黄金世代の象徴だった。子どものころは飛び抜けて背が高かった。足下に吸い付くようなドリブル、さりげなく繰り出される必殺のパス、伸びやかにたたき込まれるミドルシュート......子ども時代の映像を見て、のちのルイ・コスタと何も変わらないことに驚いた。リオネル・メッシの子ども時代も変わらず、まるでミニチュアのメッシみたいだったが、天才というのはこういうものなのだろう。
91年のワールドユース(U-20W杯)を制したポルトガルは、センセーショナルなチームだった。95年ごろ、パリの図書館で文献を漁っていたら、ポルトガルユース代表の4-1-4-1のフォーメーションが記された本を見つけた。他にも偉大なチームの戦術が解説してある本だったが、唯一のユースチームがルイ・コスタのいたポルトガル。それぐらいインパクトがあったのだ。
カルロス・ケイロス監督が率いたこのチームは、2列目の4人が自由自在に動き回り、パスを回しまくり、ドリブルをしまくった。90年W杯のコロンビアと似ていた。カルロス・バルデラマを中心としたコロンビアも、路地裏のフットボールをそのままW杯の舞台でやっているような、自由でテクニカルで喜びに溢れていたが、どちらも共通点はゴールがどこにあるのか忘れてしまうところである。
ルイ・コスタ、ルイス・フィーゴ、パウロ・ソウザ、ジョアン・ピントらの、めくるめく攻撃はユーロ1996でも再現されてベスト8。次のユーロ2000ではベスト4に入っている。ところが、W杯には不思議と縁がなく、98年は予選敗退、02年はグループリーグ敗退。06年はベスト4だったが、すでに黄金世代はほとんどいなかった。
ポルトガルで開催されたユーロ2004は、その意味で黄金世代の総決算だったといえる。
ポルトガルの太陽
「優勝? どこが? ポルトガルが? 無理だよ、無理(笑)」
ユーロ2004の開幕前、現地で何人かに聞いてみたが、「優勝だ」と答えた人は誰もいなかった。この大会のほんの少し前、ポルトはチャンピオンズリーグで優勝している。そのメンバーもポルトガル代表に入っていた。にもかかわらず、この弱気はなんなのかと。
「イタリアかブラジルでしょ。今回ブラジルは出ないからイタリアだね」
携帯電話ショップのお兄さんがそう言うのを、隣のお姉さんもうなずくばかり。挙げ句に、
「ダメよ、この国の男は」
ポルトガル人は顔のパーツが濃いわりに威圧感がない。タレ目が多いせいだろうか。性格も他のヨーロッパ人と比べると控え目で温和、真面目。彼らは普通にドイツやフランスを指して「ヨーロッパは」と言う。自分たちもヨーロッパなのにその自覚がなかった。
ルイ・コスタはハンサムでパーツも濃いが、少しタレ目のせいか、やっぱり威圧感はなかった。街中には彼の広告写真が溢れていた。イチオシの大スター。ポルトガル人らしいスター。それでいて、暗い影さえ明るく照らしてくれるような。
監督は2年前にブラジルを率いてW杯優勝を成し遂げた男、ルイス・フェリペ・スコラーリ。勝つためには手段を選ばぬ男。開幕前日、記者会見のフェリポン(※スコラーリ監督の愛称)は妙によく喋っていた。相変わらずぶっきらぼうだが、ギリシャ戦の作戦まで喋ってしまっている。ちょっとニコニコしていて、何かヘンだった。
開幕戦の先発は新聞各紙の予想どおりだったが、ハーフタイムに2人代えた。その1人はルイ・コスタだった。出来が悪かったわけではない。悪かったといえばチーム全体のほうが酷かった。プレッシャーに負けてしまっていた。落ち着いていたのはフィーゴとルイ・コスタぐらいで、この2人だけが何とか立て直そうと懸命にプレーしていた。
そのルイ・コスタを代えた。交代したのはポルトの司令塔デコ。そして1-2で開幕戦を落とすと、次のロシア戦で半分ぐらいメンバーが変わった。そこにはポルトの面々が並んでいた。
たぶん、フェリポンは開幕戦に勢いがほしかったのだ。メディアに妙に迎合的だったのも、世論を味方にしたかったのだろう。新聞各紙の開幕先発予想が全部同じだったのも奇妙だった。
つまり、こういうことだ。ポルトガルで唯一の100万都市であるリスボン、その人気クラブであるベンフィカ。ポルトも強豪だがファンの数が違う。だから新聞はベンフィカの選手を予想布陣に並べた。一方、百戦錬磨のフェリポンは国民の熱狂的な応援が、ポルトガルにタイトルを獲らせるために必要不可欠と考えていた。しかしポルトガル人はおとなしすぎる。本当はポルト勢を起用したかったのだが、開幕戦で勢いを味方にしたかったのだ。しかしそれが裏目に出たとわかると、あっさりとルイ・コスタからデコに代え、2戦目からポルト仕様に変えた。手段は選ばない。
ブラジルから帰化したデコは、この大会後にバルセロナ、チェルシーで活躍した名手だが、ルイ・コスタが劣っていたとは思わない。ポルトガルの象徴であるルイ・コスタのポジションが危ういという報道は、大会前から出ていた。デコの実力は認めていても、正直そこは手をつけてほしくないと多くのポルトガル人は思っていたようだ。だが──。
「チームのために何でもやるぜ」
ルイ・コスタは明快に宣言していた。ロシア戦では交代出場してゴール、準々決勝のイングランド戦でも交代出場で延長に決めている。少し弱気なポルトガルの人々は、チームとルイ・コスタに勇気をもらった。今度は返す番だった。
準決勝の応援はフェリペ監督が待ち望んでいた熱狂に変わっている。決勝進出が決まった夜、ひなびた漁村では教会前の小さな広場に人々が繰り出して踊った。老夫婦ばかりだったが、それも微笑ましかった。リスボンの公園では若者が一晩中ボールを蹴り、やることがない女の子たちは、傍らでおしゃべりしながらヘタクソなプレーを見守っていた。
ルイ・コスタは決勝を最後に代表から退くことを発表する。ファイナルの相手は開幕戦と同じギリシャ。試合は0-1で敗れている。ルイ・コスタは交代出場すると、力の限りプレーしたが、ギリシャの堅陣は崩れなかった。開幕に敗れてから復活、決勝にたどりつくまでのシナリオが完璧だっただけに、まるでエンディングだけ間違えてしまった映画のようだった。
5万4000人を集めたベンフィカでの引退試合。「運がなかったと思うか?」と問われたルイ・コスタは、「最後の試合に5万4000人も集まってくれた。運はいいと思うよ」と答えている。
逆境でも、いつも彼のまわりだけは晴れていた。