もはや奇跡ではない。正しい準備とハードワーク(猛練習)、緻密なゲームプランの賜物だろう。4年前のラグビーワールドカップ(W杯)の南アフリカ戦とは違う。世界ランキング9位の日本代表は、同2位の優勝候補、アイルランド代表に勝つべくして勝っ…

 もはや奇跡ではない。正しい準備とハードワーク(猛練習)、緻密なゲームプランの賜物だろう。4年前のラグビーワールドカップ(W杯)の南アフリカ戦とは違う。世界ランキング9位の日本代表は、同2位の優勝候補、アイルランド代表に勝つべくして勝った。



トレードマークのドレッドヘアを振り乱し、躍動した堀江翔太

 28日の静岡・エコパスタジムだった。日本はアイルランドに真っ向勝負を挑み、19-12で快勝した。4万7813人で膨れ上がったスタンドが歓喜で大きく揺れる。鳴りやまぬ「ニッポン・コール」。多くの観客が総立ちでバンザイの連呼がつづく。「どど~ん」。夜空をカラフルな打ち上げ花火が彩った。

 もう番狂わせではないですね? とメディアに声をかけられると、「プレーヤー・オブ・ザ・マッチ」のHO(フッカー)堀江翔太は顔をくしゃくしゃにした。ユニークなドレッドヘア、もじゃもじゃのあごひげとほおひげ。左目上にはキズに貼られたバンソウコウ。

「いや~。番狂わせじゃないですか。海外メディアは(アイルランドが)負けるなんて思ってなかったでしょ」

 確かに、ほとんどのラグビーファンは日本が勝つと予想していなかっただろう。でも、堀江ら選手とスタッフは「勝利」を信じていた。アイルランドに勝つと信じて、ここ2年余、準備してきた。とくにこの1週間。

 堀江はニヤリとして、「信じていたのは僕らだけ」と漏らした。

「まあ、試合前とか、話をしていたんですけど、”自分たちがやるべきことができれば、絶対、勝てる”って。やりきった感じですね」

 ほぼ完ぺきなディフェンス・システム。ライン・スピードをあげて、相手にプレッシャーをかけ続けた。そして、何といっても、FW(フォワード)の頑張りである。アイルランドのFWのメンバーは初戦のスコットランド戦(〇27−3)とまったく同じ。強力でシンプルな攻めに徹するがゆえに、そこで勢いに乗られると危なかった。が、負けなかった。前に前に出て、出足を削いだ。

 スクラムも押されなかった。長谷川慎コーチの指導通り、8人一体となって押し込んだ。8人16本の足の位置、スパイクの芝への食い込みなど細部にこだわった。後ろ5人(ロックとフランカー、ナンバー8)の押しがフロントローにうまく伝わっていた。

 堀江は両PR(プロップ)をうまくリードした。左の稲垣啓太も、右の具智元も、相手の押しをうまく殺していた。

「シンさん(長谷川コーチ)が言っていることをやればできるんです。日本人って、スクラムが弱いと見られがちですけど、これで強さを証明できました。”シンさん、すごい”と書いておいてください」

 試合のアヤでいうと、4点リードの後半中盤、日本はアイルランドの猛攻を浴びた。ラインアウトからボールを回され、ゴール前のピンチがつづく。FWのサイド攻撃を執拗なタックルで防ぐ。あと5m、あと3m。そこで堀江が足元に飛び込んで相手LO(ロック)を倒し、FL(フランカー)姫野和樹がボールを奪いとろうとした。

 相手はボールを離さない。「ノット・リリース・ザ・ボール」の反則をもらった。PK(ペナルティー・キック)だ。日本はピンチを脱した。

 ラスト20分。相手の足はほとんど止まっていた。ハードワークの成果だろう、日本が走り勝った。後半、スタンドからはずっと「ニッポン・コール」が飛んでいた。

 堀江の奮闘には心を震わされた。タックル16回、ターンオーバー(相手ボールの奪取)1回、ボールキャリー13回でトータル28m。パス7回、キック1回。ピッチ上でのインタビューではこう、声を張り上げた。

「みなさんの声援のおかげで、最後の1cm、最後の1mm走ることができました」

 堀江の顔をよくみると、目が少し、赤かった。泣いたの?と聞いた。

「ええ、泣きました。久々に。一瞬だけ…」

 堀江は今年3月、ラグビーでもずっと応援してくれていた父を病気で亡くした。ノーサイドのあと、バックスタンドまで駆けていき、感慨深そうな顔で手を振っていた。そこには世話になった家族やトレーナーがいた。声が湿り気を帯びた。

「亡くなったおやじもスタンドの上で見ているかなと思って…」

 前回のラグビーW杯の南ア戦に続く、「金星」といっていい。日本ラグビーの歴史を変える勝利だった。堀江は言葉を足した。

「うれしいですね。2015年の思い出を、塗り替えた感じがして…」

 堀江はチャレンジングな人生を歩んできた。座右の銘が『勇気なくして栄光なし』。帝京大学を卒業して、2008年、三洋電機(現パナソニック)に進むと、ナンバー8からHOに転向した。直後、ニュージーランドにラグビー留学。日中は高校の寮の用務員をやり、そうじや雑務に走り回った。夜はカンタベリー・アカデミーで練習に励んだ。「オールブラックス(ニュージーランド代表)」になるのが夢だった。こう、漏らしたことがある。

「常に成長したかった。(留学した2年間は)うまくいかなかった思いがあるけれど、成功か失敗か、のちの行動で決まると思っています。僕は、自分の選ぶ道に後悔したくないです」

 2009年に初めて日本代表に選ばれ、2011年のラグビーW杯に出場した。13年にはスーパーラグビーのレベルズに入団。15年のラグビーW杯にも出場し、日本代表の3勝に貢献した。その後は、ケガとの闘いが続いた。

 2015年のW杯の約半年前の2月に首の手術に踏み切り、昨年11月には右足首の手術をした。それでも、ラグビーをあきらめなかった。全幅の信頼を寄せる京都のトレーナーの佐藤義人さんとリハビリに取り組んできた。堀江はしみじみと漏らした。

「佐藤さん、”さまさま”です。佐藤さんがいないと僕はここに立てていなかったです」

 加えて、ケガもプラスにとらえる。

「あの(リハビリの)時間がなければ、うまいこと、からだづくりができなかったと思うんです。まあ、けがしないのが一番ですけど」

 すべてを糧とし、堀江は成長をつづけている。もう33歳となった。キャップ(国別対抗出場)数は「63」を数える。

 トモさんこと、38歳のルーク・トンプソンは「翔太(堀江)もおじいちゃんだけど」と周囲を笑わせた。

「彼はすばらしい。いいスクラムワークと、いいリーダーシップを持っている。フィールドプレーもすばらしい。自分のプレーをちゃんとやらないと、経験は意味がないでしょ」

 つまり、経験を生かす世界的なプレーヤーということだろう。堀江にとっての、いまの「栄光」は、「(ラグビーW杯)ベスト8入り」という。堀江が言葉に力を込めた。

「まだ2勝。(1次リーグは)あと2試合あるので、とりあえず今日は喜んで、明日からリカバリーして、サモア戦(10月5日/豊田スタジアム)に向けてやりたい。これで満足してしまうと次、負けちゃう。ワールドカップが始まっても成長していきたい」

 ゴールはまだ、ここではない。日本のラグビーファンの声援に押され、堀江がさらに一歩、前に出る。勇気を持って。