9月9日~15日の7日間にわたって、ロンドン市内のオリンピック・パークにあるアクアティクスセンターで、2年に一度行なわれているパラ競泳の世界選手権が開催された。今大会、日本選手団のキャプテンを務めたのが鈴木孝幸(ゴールドウイン)。7日…
9月9日~15日の7日間にわたって、ロンドン市内のオリンピック・パークにあるアクアティクスセンターで、2年に一度行なわれているパラ競泳の世界選手権が開催された。今大会、日本選手団のキャプテンを務めたのが鈴木孝幸(ゴールドウイン)。7日間で5種目10レースという過密スケジュールに挑んだ鈴木は、全種目でメダル(銀4、銅1)を獲得。
世界選手権では金には届かなかったが、納得の泳ぎをした鈴木孝幸
そのうち3種目では自己ベストを更新し、自らの実力を出し切った。金メダルには届かなかったものの、いずれも世界トップレベルのパフォーマンスを披露し、1年後への期待が高まっている。3大会ぶりとなる”パラリンピック金メダリスト”へ、加速し始めた鈴木の姿を追った。
来年の東京パラリンピックの出場枠がかかった今大会、各種目上位2人には国・地域別出場枠が与えられることになっていた。また、日本身体障がい者水泳連盟および日本知的障害者水泳連盟は、優勝者に代表内定を出す方針としていた。
そのため、4種目で銀メダルを獲得した鈴木は、内定は取れなかったものの、日本に出場枠をもたらした。
今年3月の代表選考会で世界選手権の派遣標準記録を突破したのは14人。少数精鋭となった日本選手団の中に、32歳の鈴木はしっかりと入ってみせた。
今大会は、鈴木にとってひとつの”勝負”でもあった。2年前、彼はこう語っていた。
「今はまだ、東京パラリンピックを目標としてはいないんです。まずは、世界と戦うことができるかどうかを見極めること。2019年には自分が東京を目指せる選手かどうか、その答えが出るはずです」
もともと「メダルが取れなくなった時がスイマーとしての潮時」という考えを持つ鈴木にとって、東京パラリンピックを目指すことはそう簡単なことではなかった。
鈴木は先天性四肢欠損という障がいがある。右腕は肘から先がなく指は1本。左手は指が3本。右脚は大腿部から、左脚は膝から下が欠損している。6歳から水泳を始めたが、ここまで本気でやることになるとは夢にも思っていなかった。
パラリンピックに初めて出場したのは、2004年のアテネ大会。高校生の時だった。大学生で臨んだ2度目の2008年北京大会では、50m平泳ぎで金メダル。予選では世界新記録(当時)を樹立し、真の”世界王者”となった。2012年ロンドン大会では、50m平泳ぎと150m個人メドレー(バタフライはなし)で銅メダルを獲得。しかし、世界の頂点を狙っていた鈴木にとって、この成績はまったく納得のいくものではなかった。
そこで、環境を変えて自らに刺激を与えることでパフォーマンスの向上を目指そうと、2013年9月からイギリスのニューカッスルにあるノーサンブリア大学に練習拠点を移した。ロンドンパラリンピックで39個のメダルを獲得したイギリス水泳チームを指導したルイーズ・グレイアムコーチを紹介してもらい、同大学水泳部の練習に参加。翌2014年にはノーサンブリア大学に入学し、正式な水泳部員となった。
2年前、鈴木のトレーニングの様子を取材しようとノーサンブリア大学を訪れた。驚いたことに、大学の水泳部が使用していたのは大会と同じ50mではなく、25mのプールだった。トレーニングルームの機器も、日本とはそう変わりはなかった。鈴木に聞くと、「ここの大学の練習環境が日本以上にいいかというと、それほど差があるわけではないと思います」と話していた。
では、なぜ鈴木は復活の狼煙をあげるための練習場所を、海外に求めたのだろうか。最大の要因は、パラリンピックを目指すアスリートに対する日本との意識の違いにあった。鈴木が刺激を求めて新しい環境を探し始めたのは、2012年ロンドンパラリンピック後のこと。当時はまだ東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定する前で、障がいのある選手への理解は薄く、体制も整っていなかったため、受け入れてくれるところは非常に少なかった。
そのため、日本ではトレーニングの内容も限定されることが多かった。ジムに行っても、トレーニングをサポートしてくれる人がいなかったため、鈴木は、なかなかウエイトトレーニングをすることができずにいたのだという。しかし、当時からノーサンブリア大学では校内にあるジムの専属トレーナーがほかの選手と同じように、鈴木専用のメニューを作り、そして実際にサポートしてくれる体制が整っていた。
そんな充実した練習環境のもとでトレーニングを積み、満を持して臨んだのが2016年リオデジャネイロパラリンピックだった。ところが、世界の成長スピードは速く、予想以上の高いレベルでの戦いが繰り広げられた。その結果、鈴木は100m、200m自由形は予選敗退。150m個人メドレーと50m平泳ぎは決勝には進出したものの、いずれも4位。パラリンピック4度目にして、鈴木は初めてメダルなしという結果となった。
「もう水泳人生に終止符を打つべき時がきたのかもしれない……」
最終レースの直後、鈴木の脳裏には「引退」の二文字が浮かんでいた。
しかし、すでにノーサンブリア大学の正式な水泳部員として大事な戦力となっていた鈴木は、リオ後も大学に通いながら水泳を続けていた。すると、コーチやトレーナー、栄養士など、各分野の専門スタッフと話し合う中で、心肺機能を高めるトレーニングや、栄養面からのアプローチなど……まだ自分の泳ぎには追求できる部分があることを感じた鈴木は、現役続行を決めた。やれることがあるとわかりながら、中途半端で終わるわけにはいかなかった。
とはいえ、すぐに「4年後」を見据えていたわけではなかった。鈴木には金メダリストとしての矜持があった。
「もちろん、自国開催の東京パラリンピックに出たいという気持ちはあります。でも、単に出るだけの”記念参加”は絶対にしたくない。なので、自分が世界とメダルを争うことができる選手であるかどうか、2019年にはその見極めをしたいと思っています」
あれから2年。今シーズン、鈴木は2種目で世界ランキング1位となり、リオで予選敗退だった100m自由形では今年4月に世界新記録を樹立と、すでに復活の狼煙をあげていた。あとは世界各国のトップスイマーたちが集結し、本気モードでのレースが繰り広げられる世界選手権の場で、どんなパフォーマンスを披露することができるか。これが東京を目指す”見極め”の最終テストを意味していた。
その結果、銀4、銅1の計5個のメダルを獲得。全種目でトップ争いを繰り広げた鈴木は金メダルを取ることができなかった悔しさをにじませながらも、「これだけメダルを取れたので」と自らに「ぎりぎりの合格点」を与えた。
4つの銀メダルのうち、特にトップとの差が0秒42の50m自由形と、0秒16の200m自由形は、タッチの差でのまさに”惜敗”だった。しかし、ここにも鈴木は自らの進化を感じていた。
「これまでもタッチの差で負けることがあったのですが、いつも相手を見て焦ってしまうことが多かったんです。でも、今回は相手を気にせずに自分のレースをやり切ることができました。その部分においては、よかったと思います」
常に冷静に自らの泳ぎを分析する鈴木の姿には、金メダリストになるべく貫禄が漂っていた。
1年後、再び世界の頂点へ。鈴木は、さらなる進化を遂げるつもりだ。