レジェンドたちのRWC回顧録⑬ 2011年大会 菊谷崇(前編) ラグビーワールドカップ(RWC)日本大会開幕のカウントダウンが始まった。ラグビー熱も高まってきた。RWC回顧シリーズの最後は、東日本大震災が起きた2011年の第7回RWC…

レジェンドたちのRWC回顧録⑬ 2011年大会 菊谷崇(前編)

 ラグビーワールドカップ(RWC)日本大会開幕のカウントダウンが始まった。ラグビー熱も高まってきた。RWC回顧シリーズの最後は、東日本大震災が起きた2011年の第7回RWCニュージーランド大会の日本代表主将の菊谷祟さん。8年前に思いをはせ、「結果を出せなかったという申し訳なさがありました」と声を落とした。



この日は日体大女子ラグビー部に指導をしていた菊谷崇

 菊谷さんは、ラグビーの指導でコーチとして全国を飛び回っている。日本ラグビー協会の高校日本代表コーチ、U-20(20歳以下)日本代表コーチほか、東京都府中市で小学生を対象にした『ブリングアップアカデミー』のラグビーコーチなどを務めている。じつは、福井県の国体チームではコーチ兼選手としてプレーもしている。

 多忙の中、日本体育大学の健志台キャンパスのグラウンドでインタビューは行なわれた。日体大の女子ラグビー部での臨時指導スポットコーチのあと、グラウンド隅のベンチにて。39歳。まだ若い。プレーも?と聞けば、「いや~、無理。全然、からだが動かない」と笑った。

 それでも、菊谷さんは指導コーチング中、選手と一緒に動き回っていた。「指導コーチングが好きなんですね」と聞けば、汗だくのキクさんはセミ時雨の中、「そうですね」と表情を崩した。

「サラリーマンで仕事をしているよりは、コーチングしている方が好きです。喜びは、やっぱり、選手たちが成長してくれるところですね。とくに主体的に選手が活動してくれていると、一番うれしいです」

 指導のモットーが「FUN(楽しい)」である。コーチになってから、スポーツは楽しくなくちゃ、と考えるようになった。だから、選手の主体性を大事にする。思えば、日本代表の主将時代は、どちらかといえば、苦しみが多かったのかもしれない。

――さて、2011年のラグビーワールドカップのことです。真っ先に思い出すのは、どんなシーンでしょうか。

「最終戦ですね。カナダ戦、勝てなかったのが一番大きいですかね」

――会場が、ニュージーランドのネイピアですね。スコアが23-23。たしかラスト10分で10点差を追いつかれました。負けに等しい敗戦でした。私の記憶では、ノーサイドのあと、菊谷さんが大野均さんと肩を抱き合って泣いていましたよね。

「どうでしょうか。覚えてないですね。なんだか、メチャ、泣いていたと言わせたい感じですね。ははは。じゃ、泣いてないです」

――泣いたかどうかはともかく、キンちゃん(大野均さん)と一緒に悔しがっていましたよね。肩を抱いて。

「それは、間違いないです。やっぱり、結果を出せなかったので…」

――引き分けじゃダメですか。

「ダメって、マスコミの人も言っていましたよ。あの時は、目標が大会2勝だったので…。メディアはきつかったですよね。まあ、いつも、そんなものなんでしょうが。そんな(期待が大きい)なか、勝てなかったのは大きかったですね」

――初戦のフランス戦(●21-47)は、健闘していた記憶があります。

「そうですね。フランスには、勝ちにいくといって、いい試合をしていたんですけど、最終的に勝つか負けるかという時に(勝利を)取りこぼしたイメージが大きいです。60分までぐらい、いい試合をして、あと20分もあるのに攻め急いだんです。最後に怒とうの攻撃をしようとしたのに、ボールをキープできなかった記憶があります。キャプテンとしては、一回、チームとして落ちつかせて、コントロールしていれば、結果はともかく、点差は変わっていた可能性はあります」

――スクラムもコラプシング(故意にスクラムを崩す反則)をとられました。

「スクラムは基本的に難しかったんです。大会直前にイタリア遠征して、イタリア(●24-31)に押されたんです。頑張って対処しましたけれど、すぐに修正ができるわけがありません。そういうところが、強化として足りなかったんです。だから、2015年に向けては、スクラムを鍛えていったんです」

――第2戦のニュージーランド戦には7-83で完敗。必勝を誓った第3戦のトンガ戦でも、18-31と負けてしまいました。

「トンガ戦もミスが多かった。エディー(ジョーンズ前日本代表HC=現イングランド代表HC)になった時、よくキャップ数(国別代表戦出場数)といっていましたけど、やっぱり経験値って大事なんです。トンガはワールドカップイヤーになると、いいメンバーが集まるじゃないですか。フランス戦もトンガ戦もカナダ戦も焦って、自分たちで崩れるケースが多かったのかなと思います。ぶれない戦い方が重要なんです」

――そうですね。最後のカナダ戦も自滅のような展開でした。

「その前の(2007年)大会もカナダと引き分けだったでしょ。今度こそはと思って、ジャパンのリズムで攻めていた記憶があります。なのに、追いつかれて」

―ラスト10分ですよね。

「そこをちょっと悔やみますね。ただ勝利を持ち帰ることができなかったという申し訳なさのほうが大きかったと思います。当時、まだ若かった堀江(翔太)とか、田中フミ(史朗)とか、そういうメンバーに対しても申し訳なくて…。あそこで勝っていたら、次の4年間が変わっていたという思いもあります」

――あのカナダ戦。最後に追いつかれた理由は何だったのでしょうか。

「たくさん、あるんじゃないでしょうか。そのあと、エディーの時代に入って、ラグビーにとことん厳しくなりました。戦術的なところもそうだし、練習量や練習強度もそうだし、僕らのJK(ジョン・カーワンHC)の頃は、それが明確になってきている時代でした。その後の2012年のスタートの時に感じたんですが、エディーは”どうやって勝つのか”という落とし込みがすごくできていたのです。”ああ、新しいラグビーだな”って。どうやって勝つのかというのが明確になって、そのためにはどういう練習をしないといけないのかと。2015年(のRWC)と比較すると、2011年では、まだ、そのあたりが足りなかったのかなと思います」

――でも、JKも必死でしたよね。

「そりゃ、そうです。JKも、選手も、全員、必死です。どの国も全員必死で取り組んでいるのに、勝つ国と負ける国が生まれるのです。その差というのは、自分たちがどう勝つのか、どうやって戦うのか、それがぶれないか。目標に対して、練習のアプローチが、より具体的で明確なチームの方が強いと思います」

――2011年の日本代表のスローガンは?

「”グッド・トゥー・グレ―ト”(グッドからグレート)ですね。選手の中では、”ワン・チーム”と言っていました。僕が代表チームのキャプテンになってから、若い子もたくさん、入ってきて、外国人選手もいる中で、ひとつになりましょうと。ワン・チームがチーム内のキーワードで、さらにスタッフを含めて、グッドではなく、グレートになろうというのをやっていました」

――結局、1分け3敗で終わります。グレートには届かなったということですね。

「そうですね。結果がすべてなので」

――2011年の日本代表はワン・チームにはなれたのでしょうか。

「いい意味でも、悪い意味でも、選手主体だったので、ちょっとぶれた部分もあったのかなと思います」

――当時、日本代表は史上最強と言われていました。選手の力量は高かったですよね。

「選手の力量でいえば、全然、今の日本代表のほうが高いでしょうが……。たしかに僕らの力量も高かったと思います。ただ、ワールドカップで6人、ケガしたかな。そこがちょっと難しかったですね。あの時は現地にバックアップ・メンバーはいなかったので。けが人が出たあと、(入れ替えの補充は)全員、日本から呼んだのです」