【スポルティーバ Interviews】塚越広大 TSUKAKOSHI KOUDAI プロとして生きる術 ■モータースポーツは数あるスポーツの中でもっとも敷居の高い競技と言っていいだろう。道具をそろえるだけでも大金がかかり、いざ道具をそ…

【スポルティーバ Interviews】塚越広大 TSUKAKOSHI KOUDAI プロとして生きる術



 

■モータースポーツは数あるスポーツの中でもっとも敷居の高い競技と言っていいだろう。道具をそろえるだけでも大金がかかり、いざ道具をそろえてもサーキットに行かなければ練習をすることもできない。プロを目指し、入門用のレーシングカートで全日本選手権を1シーズン戦うだけで、現在では1000万円ほどの費用が必要となる。さらにステップアップを重ねていくごとに、その費用は飛躍的に増えていき、F1直下のF2に参戦するためには年間3~4億円の費用がかかると言われている。

だからといってお金持ちだけしかプロになれない、というわけではない。F1で史上最多7度の世界チャンピオンに輝いたミハエル・シューマッハも、現在F1で快進撃を続けるルイス・ハミルトンも比較的、経済的に恵まれていない家庭に育っている。今回インタビューする塚越広大も両親がごく普通のサラリーマンという一般的な家庭で育っている。それでも彼はさまざまな難関を乗り越えてプロとなり、日本のトップドライバーとして活躍しているのだ。そんな彼にレースの世界でプロとして生きるための術を聞いた。

クルマ好きの父の影響で12歳からレーシングカートを始めた塚越。1980年代後半、日本はF1ブームの真っ盛りだった。「アイルトン・セナが僕のアイドルだった」と語る塚越選手は、セナが戦う世界最高峰のF1を目指して活動をスタートさせる。

――レースを始めたきっかけを教えてください。

「もともと父親がレース好きで、サーキットに自分で車を持ち込んで走ったり、実際にサーキットにレースを観戦しに行くこともありました。そして家ではテレビでF1などのレースを見るという子ども時代を過ごしていましたので、自然にクルマ好きになって、そのうち自分でクルマを運転したいという欲求が芽生えてきました。

 そんな僕の様子を見ていた父親が小学校1年生の時に「子ども用のカートスクールがあるけどやってみるかい?」と誘ってくれました。もちろん運転したかったので「やりたい!」と即答しました。それがレースを始めるようになったきっかけですが、当時はプロになりたいだなんて思っていませんでした」

――レーシングドライバーになりたいと思ったのは何歳ぐらいだったのですか?

「カートでクルマを運転したあとは、いつか世界で一番速いクルマを運転してみたいと思い始めました。それがF1マシンでした。F1マシンに乗るためにはF1ドライバーにならなくてなりませんので、F1ドライバーになるにはどうしたらいいのかと考え始めました。

 それが小学校6年生や中学1年生の時です。その頃にはレーシングカートのレースを始めていましたので、F1ドライバーは狭き門で、簡単な道のりではないことは何となくわかり始めていました。でも当時の自分がどうやってステップアップし、F1までたどり着けばいいのかわかりませんでしたので、父の協力を仰いで、具体的にプランを立てて、その実現に向けて動き始めました」



子ども用カートでレースをしていたころ(写真提供/塚越広大)

――当時はどのようにしてF1までステップアップする計画だったのですか?

「モータースポーツは非常にお金がかかる競技です。レーシングカートを始めた当初からたくさんの方のおかげで活動していましたが、一般の家庭では限界があります。そこで当時、レーシングドライバー育成スクールのスカラシップ(奨学金)を取って上のカテゴリーを目指す……ということを考えました。

 スカラシップを勝ち取り続けることは、そんなに簡単な道のりではありませんでした。それでもレーシングカートのシリーズでチャンピオンになりスカラシップを獲得し、鈴鹿サーキットが主催するレーシングスクールに入門することができました」

――佐藤琢磨選手など、数多くのレーシングドライバーを輩出する鈴鹿サーキットレーシングスクールは当時、受講料が年間700万円以上かかると話題になりました。

「僕の頃は年間800万円ほどと言われていましたが、スカラシップを獲得して入学することができました。1年間のレーシングスクールも首席で卒業することができて、再びスカラシップを獲得して、ホンダが運営していた入門用のフォーミュラカーレース、フォーミュラ・ドリームに参戦しました。

 そこでもチャンピンとなり、ホンダ系のチームから全日本F3選手権に参戦することができました。大変な時期もありましたが、そこまではほぼプランどおりにステップアップですることができました」

■レーシングカートの世界で順調にステップアップを重ねる塚越。しかし一般のサラリーマン家庭である塚越家の家計はかなり逼迫していた。父・一浩さんは、銀行から借金をしたり、自分の愛車を手放したりしてレースの活動費を捻出していたというが、それもいよいよ限界に近づいてきた。

――19歳でF3にデビューを果たしていますが、それまでの道のりで挫折しそうになった時はなかったのですか?

「2002年、レーシングカートの鈴鹿選手権シリーズのMFCクラスに参戦していたころです。15~16歳ですから、高校2年生の頃。ちょうどこのレースが鈴鹿サーキットレーシングスクールのスカラシップをかけたシリーズでした。カートからフォーミュラにステップアップすると、参戦費用がどんどん高くなっていきます。このMFCクラスでスカラシップを取れないと、いったんレースをやめることも考えなければならないと父からも言われていました。『チャンピオンになれなければもうやめるしかない』という悲壮な覚悟で臨みました。

 でも、そのシーズンはなかなか勝てず、ランキング2位で最終戦を迎えました。最終戦は2レースだったのですが、連勝しないとチャンピオンになれないというギリギリの状況に追い込まれました。それでも何とか2レース連続で優勝することができ、現在につながっています。これまで数多くのレースに出場していますが、この2002年のレーシングカートの最終戦は一番記憶に残っています。まさに僕の人生がかかったレースでしたね」

――F3はまさにプロになるための最後の関門となるレースです。F3で好結果を出せば、国内ではプロと呼ばれるスーパーGTやスーパーフォーミュラに参戦することができます。

「F3は世界各国で開催されている入門カテゴリーで、若手ドライバーがその先にステップアップを目指すカテゴリーです。僕は2006年~07年は国内でF3を戦い、07年にはF3の世界一決定戦のマカオGPで2位に入ることができました。その後、F3参戦3年目にはイギリスに渡り、ヨーロッパのF3に参戦するチャンスをいただきました。

 そして08年のシーズン終了後にはF1直下のGP2(現在のF2)のテストを受けることができました。自分のプランどおりにステップアップを果たし、夢のF1まであと一歩まで迫ったと自分では思っていました」

■日本からレースの本場ヨーロッパに渡り、実績を積み重ねる塚越は「次期ホンダのF1ドライバー候補生」として大きく注目を集めていた。しかし予期せぬ出来事が起こり、順風満帆のレース人生は暗転する。期待の新星は行く先を失い、ドライバーを続けられるかどうかの瀬戸際まで追い込まれる。



ユーロF3でも実績を積み、F1へ近づいていったが...(写真提供/塚越広大)

――そこへ、リーマンショックと呼ばれる国際的な金融危機が2008年に発生して、塚越選手がサポートを受けるホンダが08年限りでF1を撤退すると発表します。それによりドライバー人生も岐路に立たされることになったんですね。

「ホンダが年末にF1撤退を発表し、ヨーロッパで戦っていた僕も急遽、日本に帰国することになりました。でも、そのタイミングで帰国しても、翌年に参戦するカテゴリーすら何も決まっていない状況でした。ホンダからも翌年のシートはないとはっきり言われました。その時まで、僕は速く走れれば自分の人生はなんとかなると思っていたんです。でも突然、もしかしたらレースができなくなるかもしれないという状況に陥りました」

――プロのレーシングドライバーになる夢をあきらめなければならないという考えも頭をよぎったのではないですか?

「それはなかったですが、レーシングドライバーとして経験や知識がまだない中で、これからどうやってF1参戦の夢を追い続けたらいいのだろう……と途方に暮れました。と同時に、自分はレースを一生懸命にやっていましたが、どこかに甘えがあったのかもしれない、と考えました。

 実際、日本から本場のヨーロッパに行かせてもらい、F3で走り、GP2までテストすることができました。GP2のテストでもいいタイムを出せたので、「来年はこのままGP2で走れるのかな」と甘く考えていた部分もありました。でも突然、目の前にあった橋が音を立てて崩れてしまいました……。その頃は、『自分に何か足りない部分があったのか、もっといい成績を残していたらヨーロッパに残ることができたのか……』と自問自答を繰り返し、悶々とした日々を送っていました」

(つづく)



 

■プロフィール 塚越広大(つかこし・こうだい)
1986年11月20日生まれ。栃木県日光市出身。父親のすすめで6歳からレーシングカートを始め、12歳で公式戦にデビュー。その後、各クラスで勝利を重ね、2002年には鈴鹿戦シリーズMFCクラスでチャンピオンを獲り、鈴鹿レーシングスクール・フォーミュラ(SRS-F)のスカラシップを獲得。2004年にSRS-Fに入校し、首席で卒業。同スクールのスカラシップ制度によりフォーミュラドリーム(FD)に参戦し、2005年にはシリーズチャンピオンに輝く。2006年から全日本F3選手権にステップアップし、2007年のF3マカオGPでは2位表彰台を獲得。2008年に渡英し、F3ユーロシリーズにフル参戦。シリーズ・ランキング6位に輝く。シーズンオフにはF1直下のGP2シリーズ(現在のF2)のテストに参加する。2009年からは活動の場を再び日本に移して、国内トップカテゴリーであるフォーミュラ・ニッポン(現:スーパーフォーミュラ)とスーパーGTにリアルレーシングから参戦中。今年でトップカテゴリーに参戦して11年目のシーズンを迎える。公式ホームページ>>https://www.tsukakoshikoudai.net/