「楽しむ」と、「真剣味に欠ける」の境界線は、なかなかに曖昧なものかもしれない。 ウェスタン&サザン・オープン(シンシナティ)2回戦を戦う大坂なおみの口もとには、常に笑みが浮遊していた。それは、リードした時のみならず、ダブルフォルトを連ね…

「楽しむ」と、「真剣味に欠ける」の境界線は、なかなかに曖昧なものかもしれない。

 ウェスタン&サザン・オープン(シンシナティ)2回戦を戦う大坂なおみの口もとには、常に笑みが浮遊していた。それは、リードした時のみならず、ダブルフォルトを連ねてブレークを許した時すら、だ。



試合中に何度も笑みを浮かべる大坂なおみ

 のちに、彼女はその理由を、客席からの声にあったと説明する。

「私がダブルフォルトをした時に、とても大きな声で『オォ~』とがっかりした男性がいたの」

 思わず笑い転げそうになるところを必死に堪えた結果が、クスクスと漏れるような忍び笑いだったという。落胆のため息すらどこかうれしく感じたのは、それが自分への強い感情移入からくるものとわかっていたからだ。

 テニスを楽しむ――。

 それは、8月末の全米オープンを終着点とする夏の北米ハードコートシーズンを戦ううえで、大坂が掲げたテーマでもある。

 世界1位の重圧にさらされ、「テニスが楽しめなかった」全仏オープンとウインブルドンを終え、自分の内面とあらためて向き合った大坂は、胸のうちを文章にしたため、自らのSNSで公開した。

 ・全豪オープン以降、テニスが楽しめていなかったこと。
 ・結果に執着するあまり、敗戦から学ぶというプロセスを忘れていたこと。
 ・そして多くを経験し、成長を実感できた今、この先、コート内外でどんなことが起きるのか楽しみであること。

 このように、過去を振り返りながら自身の現在地や思いを文章に落とし込むことは、彼女にとって「頭を整理する作業」だという。そしてSNSなどの公(おおやけ)の場で発表するのは、「これだけの長い文章を読むほどに、私のことを気にかけてくれる人たち」に対する彼女の誠意だ。だからこそ、今の大坂はファンとの交流を含め、自分を取り巻くすべてを楽しもうとしている。

 ただ、そのような思いの表出である笑顔と試合態度は、必ずしも万人に好意的に受け止められるわけではない。大坂のコーチも、そのひとりだった。

「どうしてそんなに笑っているんだ? もっと真剣にやらないか」

 第1セットをからくも手にした後のオンコートコーチングで、コーチのジェンキンスはハッパをかけた。

 大坂もコーチのその声を、納得し、真摯に受け止めたのだろう。第2セットの立ち上がりはサーブの入りもよく、引き締まった試合展開となった。

 だが、大坂に3連敗中のアリアクサンドラ・サスノビッチ(ベラルーシ)がドロップショットで揺さぶりをかけた時、大坂にミスが目立ちだす。終盤に5連続でゲームを落とした大坂が、第2セットは2-6で失った。

 真剣味と引き換えに覇気を失ったかのような大坂に、再び笑顔を与えたのは、客席の大半を占めた大坂のファンだろうか。

「レッツゴー、ナオミ!」

 第3セット開始と同時に声を揃えて叫んだ家族連れは、「他のファンにも気合いを入れようと思ってさ」と笑った。果たしてその声援が起爆剤となったか、会場のそこかしこから、大坂を後押しするエールが飛び始める。

 そうして熱を帯びたスタジアムの空気は、大坂の「テニスを楽しみたい」との思いにも火をつけた。

 第2セットで手を焼いた相手のドロップショットにも鋭い出足で反応し、自らのポイントへと変えていく。集中力と遊び心を適度なバランスで配合した大坂は、世界1位にふさわしいパフォーマンスでファイナルセットを支配した。

 試合後の大坂は、コートサイドのみならず、通路沿いにも鈴生りのファンが差し出す無数のボールやパンフレットに、丁寧にペンを走らせた。「一緒に写真を撮って!」と叫ぶ親子連れのスマホを受け取り、自らセルフィーのシャッターも押す。セキュリティが人払いをしてもなお、「ナオミー!」と叫び追いかけてくる子どもたちの求めに応じる姿は、ファンとの交流を純粋に楽しんでいるようだった。

 この半年ほど苦しい時期を過ごしている大坂ではあるが、彼女は過去を振り返り、「あの時に戻りたい、あの時の状況を再現したいと思ったことはない」と言う。だからこそ、「みんなが私のプレーを知り、誰もが私に対してはいいプレーをしてくる」という現状を受け止めたうえで、新たな自分の確立を目指している。

 その大坂を3回戦で待ち受けるのは、今季早くも4度目の対戦となるシェイ・スーウェイ(台湾)。3月のマイアミ・オープンで大坂を破った33歳のベテランは、多彩な手持ちのカードを予測不能なタイミングで切ることに長けた、女子テニス界きっての業師だ。

 その曲者との対戦を控え、大坂は「彼女との試合では、制御不能なことがたくさん起きる。だから次の試合では、私はたくさん笑うと思う」と不敵に笑った。

 その笑みが、真に心から楽しんだものか、あるいは自身への皮肉からくるものになるのか……。

 楽しみと真剣味のバランスを模索する大坂の現在地と真価を測るうえでも、次の対試合は格好の試金石になる。