「リオデジャネイロ五輪テニス競技」(8月6~14日/オリンピックテニスセンター:バーハ・オリンピック・パーク/ハードコート)の女子シングルス決勝で、世界34位のモニカ・プイグ(プエルトリコ)が世界2位のアンジェリック・ケルバー(ドイツ)を…

 「リオデジャネイロ五輪テニス競技」(8月6~14日/オリンピックテニスセンター:バーハ・オリンピック・パーク/ハードコート)の女子シングルス決勝で、世界34位のモニカ・プイグ(プエルトリコ)が世界2位のアンジェリック・ケルバー(ドイツ)を6-4 4-6 6-1で下し、プエルトリコとして五輪史上初の金メダルを勝ち獲った。

 プイグはパワフルなショットで溢れた攻撃テニスをし、それがカウンターパンチを得意とするケルバーを揺るがせたようだった。観客席からは「シー、セ・プエデ(=Yes you can)」の歌声が挙がっていた。----君ならできる。そして彼女は実際にやってのけたのである。

 「皆が『Yes you can!』と叫んでいるのが聞こえたわ。私はその言葉を自分の中で繰り返し続けていた。ええ、私にはできる、私にはできるんだ、って」とプイグは言った。「観客たちは、私が自分を信じる手助けをしてくれ、私が負けようが勝とうが、彼らが私のためにそこにいるのだということを見せてくれたのよ」。

 プイグの父は試合前日、必要になった場合のためにと、プエルトリコの国家の菓子とともに、きっとできると信じている、と彼女にメッセージを送った。

 そして、プエルトリコの国家が史上初めてオリンピック・アリーナの周りに響きわたり、プエルトリコの赤と白とブルーの国旗は、やはり史上初めて、メダル授与式でもっとも高い位置に掲揚されたのだった。プイグは、父親が書いたことを覚えていた。

 彼女はファンたちが大声で歌っている言葉の多くを認識できたというが、シンプルな理由からコーラスには参加できなかった。涙が溢れすぎていたのである。

 「もし、泣き止むことができていたら、たぶん歌い始めていたと思うわ」と、のちに微笑みを浮かべながらプイグは言った。「でもできなかった。表彰式の間中、泣いていたから」。

 プイグはまた、オリンピックで(金だけでなく銀や銅も含め)メダルを獲得した初めてのプエルトリコ人女性となった。6つのブレークポイントをしのぎ、4度目のマッチポイントをものにして、この緊迫した試合を終えたとき、プイグはラケットを落としてコートを横切ると、プエルトリコの旗を受け取りに行った。

 「起きたばかりのことが信じられなかった」とプイグ。「それは本当に信じられないほど素晴らしい瞬間だった」。

 プエルトリコ人であるジジ・フェルナンデスは、かつて五輪の女子ダブルスで2つの金メダルを獲得しているが、彼女はそれをアメリカ代表として果たしていた。

 「プエルトリコのためにうれしく思うわ」と電話インタビューを受けたフェルナンデスは言った。「当時、私がアメリカを代表したことで、国民が感じた痛みや怒りがあった。それゆえいっそう彼女の勝利をうれしく思う」。

 22歳のプイグは、プエルトリコで生まれ、プエルトリコを代表しているが、今はフロリダに住んでいる。

 ティーンエイジャーのときに臨んだ2013年全仏オープンで、プイグは、オープン化後のグランドスラム大会3回戦に進出した最初のプエルトリコ代表の女子選手となった。その1ヵ月後、彼女はウィンブルドンで4回戦に進出することによってその記録を伸ばしたが、その後はどのグランドスラム大会でも、そこまで勝ち進むことができないでいた。

 プイグには、もうひとつ特筆に値することがある。テニスが1988年にオリンピックに戻って以来、シングルスで優勝した最初のノーシード選手だということだ。世界34位の彼女は、今年の全豪チャンピオンでウィンブルドン準優勝者でもある第2シードのケルバーに対して、この決勝で驚きの勝利を収めたが、それに先立ち、ほかにも2人のグランドスラム大会の優勝者、ガルビネ・ムグルッサ(スペイン)とペトラ・クビトバ(チェコ)を倒していた。

中央が金メダルのモニカ・プイグ(プエルトリコ)、左が銀メダルのアンジェリック・ケルバー(ドイツ)、右が銅メダルのペトラ・クビトバ(チェコ)

 同日のより早い時間にクビトバは、マディソン・キーズ(アメリカ)を7-5 2-6 6-2で倒し、銅メダルを獲得していた。クビトバはそのメダルのことを、「私のキャリアで起きた、もっともすばらしいことのひとつ」と呼んだ。

 そして明らかに、プイグも同じように感じている。

 最後に、銀メダルに終わったケルバーは、「彼女は、彼女のベストテニスをし、間違いなくキャリアで最高の試合のひとつを実現した。私はすべてをトライしたわ」と話し、勝者を称えた。(C)AP