プロ野球選手をはじめ多くのアスリートから支持される歌に隠された物語・全2回「野球」と「音楽」という2つの世界をひとつにつなげる「Full-Count」特別企画。今回は、3人組ボーカルユニット「ベリーグッドマン」から、元高校球児のMOCA(ボ…

プロ野球選手をはじめ多くのアスリートから支持される歌に隠された物語・全2回

「野球」と「音楽」という2つの世界をひとつにつなげる「Full-Count」特別企画。今回は、3人組ボーカルユニット「ベリーグッドマン」から、元高校球児のMOCA(ボーカル・MC)が登場。親しみやすいメロディーと聴く人の心に優しく響く言葉の数々は、プロ野球選手をはじめ多くのアスリートからも支持されている。そんな彼らの歌に隠された物語とは――。

甲子園出場を果たした球児、ベンチに入れなかった球児、野球の思い出を胸に今を生きるすべての球児に、故郷・大阪から宮崎の強豪高校に野球留学した経験を持つMOCAが2回に渡ってお送りするメッセージ。それでは、まず第1試合からプレイボール!

◇ ◇ ◇

――MOCAさんに、ここまで野球を語っていただくのは初めてだと伺っています。今回は元高校球児の一面をご紹介したいと思います。

MOCA「楽しみにしてました。よろしくお願いします」

――まず野球を始めたきっかけを教えて下さい。

MOCA「僕の父親は大の巨人ファン。ずっとテレビでジャイアンツ中継ばっかり見とって、チャンネルを変えたら怒られるみたいな(笑)。大阪に住んでいながら、そんな家庭で育ったんです。小学2年の時に近くの公園から『ヘイヘイホー』って、野球の掛け声が聞こえてきた。自分も混ざりたいと思って、おかんに『野球やりたい』って言ったら、最初は『あんたはすぐやめるから無理や』って言われたんです。でも、そこから1年間、ずっと『野球やりたい』って言い続けてたら、やっと許してもらえて。それがきっかけです。

入ったのは西成ホークスというチーム。当時の僕はめっちゃ太ってて『4番・キャッチャー・キャプテン』やったんですけど、当たれば全部ホームランみたいな、そんな少年でした。ただ、うっすい水色のユニホームがカッコ悪くて、それだけはコンプレックスでしたけど(笑)」

――(笑)そこから野球に打ち込む毎日が始まったんですね。

MOCA「一途でしたね。最初に買ってもらったのは古田敦也さんモデルのキャッチャーミットで、早く柔らかくしたくて、練習がない日もずっと友達と公園で練習してました。あとキャッチャーフライ。(打球が上がった瞬間に)マスクをパッと取って、サッと後ろを向いて、バックネットに激突しながらキャッチするやつ。あれを絶対やりたいと思って、家の廊下でずっとその練習をしていたんですけど、ある時、ものすごい勢いでガラス扉にぶつかって、ヒザを9針くらい縫いました(笑)」

――その練習の成果を発揮できるチャンスはありましたか?

MOCA「全くなかったですね(笑)。中学に上がる時、リトルシニアで硬式野球をしようか迷ったんですけど、軟式でええやろと。その軟式野球で厳しいトレーニングをして激やせして、そこからサードに移ったんです」

「中学ではあまりアウトになった記憶がないくらい安打製造機やったんです」

――必死で家でも練習していたキャッチャーをなんでやめてしまったんですか?

MOCA「少年野球でバッテリーを組んでいたピッチャーが剛速球だったんですよ。彼は履正社高校に行って甲子園に出たんですけど、投球練習でミットの紐がちぎれるくらい球がめっちゃ速くて、毎回手がシビれるみたいな」

――まるで沢村栄治さんが残した伝説みたいですね。

MOCA「もう、そんな感じですよ(笑)。それで手を痛めたこともあって、サードになりました」

――当時憧れた選手はいますか?

MOCA「高橋由伸さんですね。内野手なのに、由伸モデルの『YT』とロゴが入った外野手用のグローブを買いました」

――そこから宮崎の強豪・延岡学園高校に野球推薦で入学するわけですね。

MOCA「はい。中学ではあまりアウトになった記憶がないくらい安打製造機やったんです。同じチームには小学校でバッテリーを組んでた履正社高校に行ったピッチャーや、天理高校で左ピッチャーやったやつとかもおって。最後の大会は3回戦で負けたんですけど、その試合をスカウトの人が見に来てたんです。ただ、僕は高校では通用せえへんやろなと思っていたし、母親にも『あんたは絶対公務員になりなさい』『悪い友達ができないように私学に行かなあかん』て言われて(笑)。それで野球を辞めた後は塾に通ってたんですけど、ある日、スカウトの人から電話が掛かってきて『セレクションを受けに宮崎まで来ませんか?』って言われたんです」

――セレクションは野球推薦を勝ち取るための実技試験、オーディションみたいなものですね。

MOCA「そうです。それで同じチーム3人でセレクションを受けに行きました。結局、僕以外の2人は他の高校に行ったんですけど、僕は『ありかも』って思って。どうせ私学に行かなあかんし、うるさいおかんから離れられるし(笑)。親からも『そんな話はめったにないぞ。行ってこい!』と後押しされた。ただ、わざわざ宮崎まで行って、レギュラーになれへんかったら恥ずかしいし、そんな不安な気持ちも抱えながら、決意しました」

――実際に高校に入ってみると……。

MOCA「やっぱりエグいなと思いましたね。入学前から召集が掛かって新入生の歓迎練習みたいなことをして、そこで個々の能力をチェックする練習があるんですよ。先輩が投げた球を打つんですけど、28人いる新入生のうち全員ホームランを打ったのに、僕だけ1本も打てなかったんです。『これは努力で何とかなる次元じゃないない。ちょっとやばいところに入ってきてしまったな』と思って、おかんに『レギュラー無理やわ』って電話したら、『絶対、帰ってきたらアカンで』って言われました」

野茂氏、新庄氏の恩師・浜崎監督がチームを変えた 「そんなやつらは一生出られない」

――入学式前ですよね?

MOCA「そうです、入学前です。だから、もう地獄の始まり(笑)。ただ人間って賢いもんで『どうやったらこのチームに必要な存在になれるんだろう』って15歳ながらに考えて、まず学級委員長になったんですよ。野球で目立たれへんから、学業とリーダーシップでまとめていこうと。3年間通じてメンバーの中でも一番元気を出して『あいつがおらんかったらなんか暗いなあ』、そう思われる存在になろうと決めました。

もちろんレギュラーも目指しましたよ。能力が高い同級生がいっぱいいる中、練習時間も一緒やったら絶対試合に出られへんと思って、一番早くから一番遅くまで練習をしてました。ただ試合に出たらエラーするわ、打席に入ったら笑われるみたいな。そんな空気の中で始まりましたね」

――肉体も精神も相当きつかったんですね。

MOCA「そうですね。ただ2年の時に、野茂英雄さん(新日鉄堺)や新庄剛志さん(西日本短大付)を育てた浜崎(満重)監督が、うちの学校に来て下さることになって『すごい人が来るで』と。最初の練習の時、監督に『みんな何を目指してんねん?』って1人ずつ聞かれたんです。僕らの高校は当時、もう5年くらい甲子園に出られてなかったんで『僕たちは甲子園を目指してます!』って言ったら、『そんなやつらは一生出られない。甲子園で優勝しますと言わないと、甲子園には出られないんだ』って仰有るんですよ。『え? いきなり僕たちが優勝ですか?』みたいな感じだったんですけど、そこでマインドシフトされました。監督には、単純に優勝するって目標を立てるだけじゃなくて、どうやったら優勝できるかを徹底的に刷り込まれました。

試合に出られない部員が対戦相手のビデオを撮りに行き、レギュラーはそんな部員の気持ちを汲みながらビデオをチェックする。僕も試合中、ベンチに戻ってこられない選手にグラウンドに出られるギリギリのところまでタオルとグローブを持っていったり、みんなが怪我しないように毎日グラウンドの石やゴミを拾ったり。どんどんみんなの意識が変わっていって、絶対に甲子園で優勝するぞって気持ちになりました。

すると、2年生秋の九州大会でベスト4までいって、翌年に春の選抜出場が決まり、最後の夏は県大会で優勝して甲子園出場を決めたんです。ただ自分たちは甲子園で優勝を狙ってるから、県大会で勝つのは当たり前みたいな、そんなマインドになっとったんで、甲子園出場が決まっても『監督を胴上げするのは甲子園で優勝してからにしよう』って胴上げはしなかったくらい。弱いけど粒が揃ったのが一致団結した、そんな瞬間があって、感動したことを今でも覚えてますね」

(続く)

<プロフィール>
ベリーグッドマン (BERRY GOODMAN)
「Rover」「MOCA」「HiDEX」からなる大阪出身の3人組ボーカルユニット。3声の力強いハーモニーとラップ、秀逸なトラック、リリックが世代を越えた共感を呼んでおり、第1のゴールとした“大阪城ホール”でのライブは1万人即日ソールドアウトの超満員で大成功させた。次世代を牽引するアーティストの呼び声が高い。前田健太投手、鈴木誠也選手、T-岡田選手、増田達至投手から体操金メダリストの白井健三選手まで多くのスポーツ選手に愛されている。(福嶋剛 / Tsuyoshi Fukushima)