「芝が嫌いというイメージは、もうまったくなくなりました」 今年のウインブルドンが開幕する前、彼はことさら色めき立つふうもなく、さらりとそう言った。 打ち合いのなかで相手を崩すのを得意とする錦織圭は、球足が速くラリーの続かぬ芝のコートに、…

「芝が嫌いというイメージは、もうまったくなくなりました」

 今年のウインブルドンが開幕する前、彼はことさら色めき立つふうもなく、さらりとそう言った。

 打ち合いのなかで相手を崩すのを得意とする錦織圭は、球足が速くラリーの続かぬ芝のコートに、苦手意識を抱いていた。かつては「芝に来ると、自然と相手が強く見える」と言う、印象的な言葉を残したこともある。



苦手だった芝のウインブルドンでベスト8進出を果たした錦織圭

「自分のなかで、確実にポイントを取れるパターンが確立していない」

 それが、1年前の開幕時点で、彼が抱いていた思いだった。

 その芝でポイントを取るコツを、錦織は昨年の戦いを通じて、いくつか掴んだ感覚があったと言う。

 ひとつは、サーブ。バウンドが低く、ボールがすべる芝のコートでは、サーブの優位性が高い。それが、錦織が芝を好まぬ理由でもあったが、昨年はそこに発想の転換があった。

「スピードも大切ですが、グラス(芝)はサーブをコーナーに入るだけで、エースにもなる」

 苦手意識の根源を、弱点を補う要素に変えてみせたのだ。

 今大会でも錦織は、「僕みたいなサーブでも、ワイドをついたりスライスで曲げたりすると、簡単にポイントを取れたりする」と、サーブでのポイントの取り方を完全に会得した様子。今回、準々決勝までの4試合でセットをひとつしか落とさなかったのも、安定して自身のサービスゲームをキープできていたのが大きかった。

 もうひとつは、「頭を使った駆け引き」の妙を、楽しめるようになり始めたこと。リターンにしても、相手サーブのコースを読むことはもちろん、ポジションを変えることで望むコースにサーブを呼び込むこともできるだろう。

 芝ではネットプレーが効果的なことも、「駆け引き」の妙味を増す要因だ。

「スライスを打って、急に前に出たりすることも、芝では有効」だと、錦織は言う。

 たしかに今大会での錦織は、快勝した初戦後にも「もっと前に出るチャンスがあった」ことを唯一の課題にあげ、2回戦では24本のポイントをネットプレーで奪った。ちなみにこれは、この試合で錦織が獲得した全ポイントの約27%を占めている。

 このネットでの高いポイント獲得率は、単に、芝だからというだけではない。最近の錦織は、試合時間を短縮し、体力を温存するためにも、プレースタイルを変えつつある。

「目指すのは攻撃的なテニス。前に出るのを増やしたい」と言うのは、クレーシーズンを戦う5月の時点で口にしていた言葉だ。

 その時には、「やりたい思いはあるけども、自分のテニスの調子だったり、自信だったり、コートサーフェスや風なども関係してくるので、やりたくてもできない期間はある」との葛藤も抱いていた。それでも、目指す地点を「大きな目標があるので、揺らぎはない」と断言し、ネットプレーの優位性が低いクレーでも、挑戦と模索を繰り返す。

その意志と決断が、今回、芝の上でひとつの実を結んだ。

 今大会は最終的に、準々決勝でロジャー・フェデラー(スイス)に敗れた錦織だが、これは今季のグランドスラム準々決勝の試合のなかで、もっとも勝利の可能性を漂わせた試合だった。

 1月の全豪オープンでは、3度のフルセットの死闘を戦い抜いた帰結として、ノバク・ジョコビッチ(セルビア)に棄権を強いられて敗れる。先の全仏オープンでは、やはりベスト8にたどり着くまでに体力を使い果たし、ラファエル・ナダル(スペイン)相手に勝機を見出すには至らなかった。

 だが、今回のウインブルドンは違う。立ち上がりでいきなり2本のリターンエースを叩き込み、驚異のスタートダッシュで第1セットを奪い去った。以降は、芝の帝王に苦しい戦いを強いられるも、体力のタンクを満たした錦織のテニスがいかに魅力的であるかを、あらためて知らしめた試合でもあった。

 また先ほど、「今季のグランドスラム準々決勝の試合のなかで」とさらりと書いたが、錦織は今季のみならず、昨年のウインブルドンから5大会連続でベスト8以上(昨年の全米オープンはベスト4)に勝ち上がっている。

 この数字がいかに偉大かは、他の選手の動向と比較した時、一層鮮やかな光を放つだろう。何しろ、錦織と同様に5大会連続でベスト8以上の戦績を残しているのは、他にはわずかにジョコビッチとナダルのみ。あのフェデラーですら、昨年の全米と今年の全豪では、4回戦で敗れている。

 錦織の同世代でライバルと呼ばれてきたミロシュ・ラオニッチ(カナダ)とマリン・チリッチ(クロアチア)も、この1年でベスト8に進んだのは一度のみ。若手の旗手と謳われるステファノ・チチパス(ギリシャ)やアレクサンダー・ズベレフ(ドイツ)も、それぞれ一度しか準々決勝以上に勝ち進んでいない。

 今年の全豪で敗れた時、錦織は「8を越えられないのはすごく悔いが残るし、やりきれない思いはあります」と言ったが、その後にこう続けた。

「ひたすら、がんばっていくしかない」

 今大会でのベスト8は、そこに至るまでに「満身創痍」に陥った過去の悔いを原動力とし、新たなプレースタイルを求めた成果だ。その意味では、たとえ結果は同じでも、内実は過去のそれとは大きく異なる。

 プレーのコツを掴み、「好きになってきた」芝は、この先に進むための手がかりをも、錦織に与えてくれたはずだ。