専門誌では読めない雑学コラム木村和久の「お気楽ゴルフ」連載●第213回 プロゴルファーの中には、「英雄」や「スター」、「レジェンド」と呼ばれている人が多数いますが、アマチュアゴルファー界にもレジェンド級の方がちらほらおります。 今回はそ…
専門誌では読めない雑学コラム
木村和久の「お気楽ゴルフ」連載●第213回
プロゴルファーの中には、「英雄」や「スター」、「レジェンド」と呼ばれている人が多数いますが、アマチュアゴルファー界にもレジェンド級の方がちらほらおります。
今回はそんな、ゴルフ界に多大な影響を与えたアマチュアゴルファーの、偉大なタレントやクリエーターの方々を紹介します。
まずは、O橋K泉さん。
この方は、ビートたけしさんが春頃、『週刊文春』で連載していた実録小説『ゴルフの悪魔』に登場する、大物司会者です。表記をそのままにして、ネタを少々拝借して、彼の偉大な功績を紹介したいと思います。
O橋K泉さんと言うと、そのキャラはすごくわがままで、独善的なイメージが強いですよね。クイズ番組の司会をやっていた頃は、ほとんど伊豆の別荘で暮らしていたそうです。そこがあまりにも気に入って、その周りも関係者の人たちに購入させたみたいです。ただその後、いろいろ問題があったようですけど……。
その伊豆で、O橋K泉さんとたけしさんはゴルフをしていたそうです。もちろんラウンドの際は、どこぞの大統領をもしのぐ”K泉さんルール”で行なわれます。ドライバーのティーショットでは、何球か打ってからいいボールを採用する”ひとりベストボール方式”でプレーしていた、というから笑えますね。
その後、わがまま話は拡大解釈され、都市伝説化していきます。私が聞いていることだけでも、「朝イチのティーショットを打ったら、OBだったので、そのまま怒って帰ってしまった」とか、「某メンバーコースに来て、ゴリ押ししてプレー。そこから、いろいろと注文をつけた挙句、同倶楽部を出入り禁止になった」とかね。
真偽はわかりませんよ。ともあれ、後世まで語り継がれる都市伝説になっているほうが、スケールがでかくて面白いじゃないですか。K泉さんも天国で「おまえら、話を盛りすぎ。ウッシッシ」なんて言って、高笑いしているんじゃないですか。
でもね、真面目に社会貢献したこともたくさんあって、ゴルフ界においてはマジで”レジェンド”です。最大の貢献は、『O橋K泉インビテーション』というプロアマを、1977年から16年間(1986年は中止)も開催したことです。
自らの名前を冠にした大会は、アメリカのボブ・ホープ・クラシック(現在のヒューマナ・チャレンジ。ボブ・ホープはアメリカの俳優、コメディアン)を模倣したとされています。日本のプロアマ競技の草分けとして、後世まで語り継がれる大会だったと言えるでしょう。
K泉さんは、ゴルフで一時期スランプになって、ゼロからやり直して見事に復活します。その体験苦労話をまとめたのが、1977年に刊行された『わがシングルへの道』(講談社)。若い時に読みましたが、K泉さんのマジメな姿勢に驚いたものです。
「スイング改造をゼロからやると、一旦(スコアが)100レベルまで落ちるがいいのか?」と、レッスンプロに言われたK泉さん。それでも、自己流をすべて捨てて再起をかけたのです。結果、シングルプレーヤーにまでなるのですから、大したものです。
晩年、体調を崩してだいぶ痩せられたのですが、「この前、80台で回ったよ~」と、とあるテレビ番組でニコニコして語っていたのが、印象的でした。いろいろな武勇伝や都市伝説はありますが、本当にゴルフが好きなんだなぁと思いました。ある意味では、非常に幸せなアマチュアゴルファーだったのではないでしょうか。
そしてもうひとり、先頃亡くなられた小池一夫先生。『子連れ狼』などを書かれた漫画原作者であり、作家、作詞家、脚本家などとしても有名ですが、そんな小池先生もまた、偉大なアマチュアゴルファーと言えます。
実は、小池先生とは仕事で何度かお会いしていて、一緒にラウンドもさせてもらいました。そういう時の会話が面白くて、大笑いしていたものです。
最初にラウンドした時は、「先生、子どもの頃からファンで、『オークション・ハウス』や『実験人形ダミー・オスカー』など読んでいました」と、挨拶しました。すると、小池先生は「おいおい、おまえ、いきなり持ち上げてくるな。何か企んでいるのか?」と、軽くジャブを打ってきてくれました。
ラウンド中は、年齢を考えても、こっちのほうが飛距離で勝ります。そういう時は、小池先生は素直に「若いって素晴らしいねぇ~。(自分も)昔は『アイアンの名手』って言われたんだよ」と昔を懐かしみます。
そうして、グリーン上ではロングパットをきっちり寄せて、右腕を指差しながら「パットにはお金をかけているから。若い者にはまだ負けないよ」と、ニコニコとされていました。
小池先生は後輩の面倒見も非常によく、その日はカウンターバランスなど、当時流行っていたゴルフグッズを私にくれて、「また、会おう」と言っていただいて別れました。
それからしばらくして、小池先生が主催者のひとりに名前を連ねる大コンペに呼んでくださいました。そこで、超大物の方と組ませていただくことに……。
非常に場違い感があって、恐縮しました。大物漫画家の方々の中に、なぜ自分だけひとりポツンと混じっているのか? その理由を小池先生にやんわり聞いてみると、「おまえは(誰とラウンドしても)ビビらないから面白い。手加減なしでやっつけてこい」と言うのです。つまり、場を引っかき回して来い、という意味でしょう。
そうしたら、実際に私と同組でターゲットとなった先生は調子を崩して、小池先生の狙いどおりに……。念のため言っておきますけど、別にこっちは何もしていませんよ。マイペースでゴルフをしていただけですよぉ~。
という感じで、小池先生は事前に”策”を練るのが好きなのです。
こういう話もあります。
小池先生が某名門コースで、シニアのクラチャン(クラブ選手権)にエントリーすることになりました。エントリーのラインナップを見て、「今年はひょっとしたら、勝てるかも」と思ったそうです。
けど、一番強い優勝候補がひとりいる。だから、2位にはなれる。「でも、優勝したい」と思った小池先生は、考えた挙句、どうしたと思います?
なんと、その優勝候補のメンバーに電話して、「すまないが、今年のシニアのクラチャン、出場を辞退してくれないか」と持ちかけたそうです。
無論、相手は断りましたけどね。
戦略って、そういうこと?って思われるでしょうが、こういう話を大マジメに語る小池先生が、なんともオチャメでした。
関西の超名門コースのメンバーになる時も、漫画原作者の肩書きでは入れないからと、まずは某芸術大学の教授の肩書きを得ます。そして、関東の名門コースのメンバーになって、そこから大学教授ということで、関西の超名門コースを紹介してもらう、という戦略を取ったそうです。
事実、そうした戦略によって「無事に入会できた」と、小池先生は自慢しておりました。
ふたりの偉大なるアマチュアゴルファーに、あらためて敬意を表します
そんな小池先生のゴルフ界における最大の貢献は、ゴルフ雑誌『アルバトロス・ビュー』を手がけたことじゃないですか。1987年、全盛時には発行部数30万部を誇ったモンスターゴルフ雑誌を創刊したのです。
その後、経営者は変わりましたが、今でも人気雑誌のひとつとして健在です。もちろん、私もそちらでお仕事をさせていただいております。そういう意味では、小池先生がゴルフ雑誌を創刊していなかったら、今の私はなかったのです。
晩年、歩行が困難になりながらも、ツイッターで人生を語り、フォロワー数は90万人を超えていました。これは、表現者として大いに見習うものがあります。
最後まで何か言いたくて、表現したくて仕方がなかった。80歳を過ぎても、若者にウケていたのですから、ほんと熱量の高い人でした。
我々もスコアでは凡人ですから、何かゴルフに関わることをやって、人生にささやかな足跡を残せればな、と思います。
偉大なアマチュアゴルファーに合掌――。