マーリンズのイチロー外野手がメジャー史上30人目となる通算3000安打を達成し、また1つ偉大なる功績を生んだ。野球史に残る偉業達成に、日米メディアでは背番号51に関するさまざまな特集記事が組まれているが、古巣マリナーズの球団公式サイトでは「…

マーリンズのイチロー外野手がメジャー史上30人目となる通算3000安打を達成し、また1つ偉大なる功績を生んだ。野球史に残る偉業達成に、日米メディアでは背番号51に関するさまざまな特集記事が組まれているが、古巣マリナーズの球団公式サイトでは「日本からアメリカへ、イチローは生まれながらのスター」と題した記事の中で、オリックスの元助っ人2人が語る若き日のイチローの姿を紹介している。

■入団1年目は自転車通勤「ベテランの前での作法を知っていた」

 マーリンズのイチロー外野手がメジャー史上30人目となる通算3000安打を達成し、また1つ偉大なる功績を生んだ。野球史に残る偉業達成に、日米メディアでは背番号51に関するさまざまな特集記事が組まれているが、古巣マリナーズの球団公式サイトでは「日本からアメリカへ、イチローは生まれながらのスター」と題した記事の中で、オリックスの元助っ人2人が語る若き日のイチローの姿を紹介している。

 記事に登場するのは、オリックスの助っ人外国人選手として1992年から2季を過ごしたケルビン・トーベ氏と、1993年から2季を過ごしたタイ・ゲイニー氏だ。トーベ氏がオリックス入りした1992年は、イチローがプロ生活をスタートさせた年。当時2軍にいた18歳の新人外野手のことは、今でも鮮明に覚えているという。

「合宿所から球場まで自転車に乗ってきていたよ。ドラフト1位指名だって聞いたが、新人らしい振る舞いをしていた。非常に礼儀正しく、ベテランの前での作法を知っていた。そして、いやぁ、いい選手だと、すぐに分かったよ」と絶賛。「18歳であっても、彼の技術が仲間たち以上のものだと分かるまで、そう長い時間は掛からなかった」と、1992年当時のことを振り返っている。

 入団時、オリックス監督を務めた土井正三氏に認められず、1992年は95打数、1993年は64打数しか1軍生活を味わわなかったイチローだが、1994年に故・仰木彬氏が新監督に就任し、状況が一変した。パ・リーグ記録となる打率.385で首位打者を獲得、さらにシーズン210安打を放ち、当時の日本記録を樹立。イチローの数ある伝説が始まった年となった。

■2ストライクからスイングの真っ只中で動作を停止「あんなの見たことがない」

 この時、同僚だったのがゲイニー氏だ。登録名は「タイゲイニー」。ロッカーの2つ隣にイチローがいたというゲイニー氏は、その類い稀なる打撃センスに度肝を抜かれたという。ある日のこと、打席に立った背番号51は、2ストライクからバットを振りにいったそうだ。だが、途中で振るべきではないと気付き、スイングの真っ只中でピタリと動作を止めてしまったという。「あんなの見たことがないし、どうやった人間の為せる業たるのか、未だに理解できない」と首を傾げたそうだ。

 居ても立っても居られず、イチロー本人に「どうやったら、あんなことができるんだ」と聞いたゲイニー氏に、こんな答えが返ってきたという。

「僕は自分をよく知っていますから。自分のスイングを知っていますし、自分のスイングが狂っている時もすぐに分かる」

 さらに、記事では成人間もない若い頃から、イチローがアメリカ文化に継投していたことも紹介。当時からイチローは「Whassup, homie(よ、元気)?」というストリート系のスラングを使って、ゲイニー氏ら助っ人外国人選手と交流を図っていたそうだ。メジャーに移籍後16年経った今でも使うこのフレーズは一体どこで覚えたのか? ゲイニー氏は「間違いなく教えたのはオレだね」と誇らしげに話したそうだ。

 弱冠20歳の頃から自らのスイングを熟知し、アメリカ的感覚を取り入れていた背番号51。史上30人目の偉業と達成したベテランの知られざる若き日のエピソードに触れ、アメリカのファンたちは、より一層親近感を沸くことになっただろう。