レジェンドたちのRWC回顧録⑤ 1991年大会 吉田義人(前編) 時代は平成に入り、バブル崩壊が始まった1991(平成3)年、ラグビー人気は盛り上がっていた。第2回ラグビーワールドカップ(RWC)では地区予選が導入され、真の「世界一決定…

レジェンドたちのRWC回顧録⑤ 1991年大会 吉田義人(前編)

 時代は平成に入り、バブル崩壊が始まった1991(平成3)年、ラグビー人気は盛り上がっていた。第2回ラグビーワールドカップ(RWC)では地区予選が導入され、真の「世界一決定戦」の様相を呈した。出場国のレベルが上がった。



現役引退後は、母校の明治大学で監督も務めた吉田義人

 本戦で日本代表は、ラグビー史に新たな1ページを刻み加えた。ジンバブエに圧勝(52-8)し、記念すべきW杯初勝利を挙げたのだ。1989年にスコットランドを28-24で破ったメンバーを主体とし、宿澤広朗監督(2006年没、享年55)率いる代表チームは熟成度を増していた。主将が、平尾誠二さん(2016年没、享年53)だった。

 初戦は、敵地の英国エジンバラでスコットランドに挑むも、9-47で敗れた。だが、次のアイルランド戦では首都ダブリンの、あの古めかしいランズダウン・ロード(スタジアム)で日本代表はスコア(16-32)よりも拮抗した戦いを演じ、すこぶる気のいい観客の拍手と声援をもらったのである。

 その試合で特に光り輝いたのが、スピードスターのWTB(ウイング)吉田義人さんだった。あれから28年、多忙なスケジュールの合間を縫って、瀟洒なレストランでインタビューは敢行された。

 50歳とは思えない覇気を感じる。店内にはやわらかい気配が漂う中、窓側の隅に座った吉田さんは、強烈な存在感で迫ってくる。日本スポーツ教育アカデミー理事長。今日は西へ、明日は東へ。この日も地元の子どもたちに、ラグビー教室を開くことになっていた。

 銀色のネクタイ姿。ラグビーワールドカップまであと3カ月ほど。忙しいですね、と声をかければ、「この時期、忙しくなくちゃ、まずい状況ですよね」と少し笑った。

 第2回ラグビーW杯で共に戦った宿澤さんや平尾さんは急逝した。「平尾さん、宿澤さんとか、先輩たちもお亡くなりになってしまったし…」と声を落とし、「どこに行っても、東京オリンピックという話は出てくるけれど、ラグビーワールドカップはまだまだ…」。ラグビーW杯開催都市(神奈川・横浜)の特別サポーターとして、大会の盛り上げにもひと役買っている。

――さて、28年前の第2回ラグビーワールドカップ、最初に思い出すことはどんなシーンでしょうか。

「僕は、あのアイルランド戦だな、やっぱり。梶原(宏之)さんのトライは大会のベストトライにノミネートされました。あれは、ずっと練習してきたことが、試合でパフォーマンスとして出せた場面でした」

――あのトライは私もよく、覚えています。後半の中盤、自陣22m付近のペナルティーキックからの速攻で、バックス(BK)に展開してWTBの吉田さんがゴール前まで迫り、SO(スタンドオフ)松尾勝博さん、FL(フランカー)梶原宏之さんと約80mをつなぐ圧巻のトライでした。

「そうそう、ペナルティーから。堀越(正己/SH=スクラムハーフ)のタップキックから、松尾を通して僕に来て、アイルランドの14番のWTBと1対1になったんです。それをスワーブで抜いて、バッキングアップで走ってきたFB(フルバック)にコースを押さえられたんですけど、タックルを受けながらパスを松尾さんにつないで、最後は梶原さんへのオフロードパスでした」

――吉田さんのランにスタンドの相手ファンも熱狂しました。吉田さんは試合終盤、スクラムの左サイドアタックから、最後にトライもしました。トライ数では相手4本に対し、日本は3本でした。日本の攻撃は狙い通りでしたよね。

「そうです。格上のアイルランド相手に。僕は初戦のスコットランド戦でランはしましたけれど、トライができなかった。なぜ、アイルランド戦の光景が出てくるかというと、やっとね、世界のひのき舞台に立てるという思いがありました。そこで、自分のパフォーマンスができたんです。今でこそ、代表の国際マッチは年間、何試合もありますけれど、当時は年間、1、2試合あるかどうかの状況だったんです」

――吉田さんが日本代表に入ったのは、1987年の第1回ラグビーワールドカップのあとですよね。

「そうです。1988年の10月、秩父宮ラグビー場の改装後のこけら落としだったオックスフォード大戦(19-23)がデビュー戦でした。相手チームには、留学中のニュージーランド代表のデビッド・カークやオーストラリア代表のイアン・ウィリアムスらがいました。私のトイメンがそのイアンでした。当時、僕は19歳です。まだまだ青い選手でした。ははは」

――宿澤ジャパンは、「チーム」を感じさせました。アジア・太平洋地区予選でチームの結束が強固になった印象でした。

「地区予選はきつかった。相手が西サモア(現サモア)でしょ、トンガでしょ、韓国でしょ。前年、日本はアジア大会の決勝で韓国に敗れていたんです。当時の韓国はめっちゃ強くて。セブンズ(7人制ラグビー)にも出ていた選手はすごく足がはやくて…。当時の日本代表は、スキルはあったけれど、そこまでのスピードを持っている選手はいなかったですね。地区予選、その韓国相手に完勝(26-10)しました。西サモアには敗れましたが、トンガには勝ちました(28-16)」

――あの時のチームは勝ち方が、ガチッとしていた印象です。

「宿澤さんの指導は明快でしたよね。ビジョンや世界観をしっかり持ってらっしゃいました。宿澤さんは、結局、日本ラグビーは世界のラグビー先進国と比較したら弱小国だ。ラグビーはコンタクトのある球技だから、パワーで負けてしまう。だから、我々日本人は世界を相手にこうやって戦うんだって明確に言い切ってくれたんです」

――それは、どんなラグビーですか。

「ひと言で言うと、テンポ、スピード、集散ですね。フォワード(FW)もバックスもボールを散らしていく。肝心のボール争奪戦においては、アタックで人数をかけてでもしっかりボールを出していく。はやいテンポで。ディフェンスにおいては、人数よりもタックル。あの当時は、やっぱり低く正確に一発で相手を倒せるタックル力を求められました」

――そういえば、代表選考も明快でした。タックルができない選手は代表には選ばないとおっしゃっていましたよね。

「そう、タックルがすごく重要でした。今でこそ、上にもいってボールをつぶしにいきますけど、当時は上にいったら外国人のパワーにやられるので、宿澤さんは相手をしっかり倒すため、明確に腰から下にいけと言っていました。接触プレーで一番多いプレーヤーが、CTB(センター)もそうだけど、フォワードにおいてはFLですよね。当時、タックルの強い梶原さんと中島修二さんを新しく起用されました。アイルランド戦は、LO(ロック)が林(敏之)さんと大八木(淳史)さんでいけると判断して、機動力があってサイズのあるエケロマ(ルアイウヒ)をLOからFLにポジションを変え、より攻撃的な布陣を敷いたのです」

――チームとしてのこだわりを覚えてらっしゃいますか。

「宿澤ジャパンは、バックスもフォワードも、基本中の基本の走ることにこだわっていました。集まって散る集散では、グランドを広く使って外側にボールを運ぶというプランだった。それで、吉田義人を走らせる。宿澤さんはミーティングでそう、明確に言ってくれました。それは、しびれるよね。監督自ら、”吉田にボールを集めろ”って。それはもう、うれしかったですね」

――逆にプレッシャーは。

「ない。プレッシャーよりうれしさでした。走れば、トライを取りきる自信がありました」

――宿澤さんはチーム作りがうまかったですよね。ワールドカップ前に学生日本代表でアイルランドに遠征させたり、ジャパンAとしてジンバブエに遠征させたりしましたよね。

「それは感じました。やっぱり、物事を成功させるためのサクセスストーリーがあったんです。計画を立てる。勇気を持ってチャレンジしていく。計画、実行、検証、修正って。それをスタッフがしっかり回し、選手側にも明確に伝えてくれました。そういえば、学生日本代表の時は僕がキャプテンを務めさせてもらいました。5戦目の最後、アイルランド学生代表に勝ったんです。そのツアーが、初めてヨーロッパの選手が相手でした。アイルランドのチームってこんなチームなんだということを肌で感じることができました」

――どんなチームだと。

「いやもう、すごく基本に忠実なプレーをしてくるなって。それがすべてでした。派手さはないけど、すごく正確なプレーをしてきました。南半球はフィジカルとパワーでしょ。ヨーロッパの選手はジェントルマンシップを感じさせる。礼儀というか、品格を感じました。例えば、ハンドオフでは、ニュージーランドの選手は力でバーンといくけど、アイルランドの選手はタイミングよくちゃんとハンドオフといった感じだったんです」

――チーム作りで言えば、1989年のスコットランド戦から第2回W杯まで、メンバーはほぼ変わりませんでした。

「そうですね。確か、1989年のスコットランド戦のスタンドオフは青木(忍)さんで、ワールドカップでは松尾(勝博)さんでしたが、平尾さん、朽木(英次)さんのCTB(センター)陣は変わりませんでした」

――平尾さんに生前に話をうかがったら、バックスの呼吸の”吐く、吸う”まで一緒だったとおっしゃっていました。

「そうです。”阿吽(あうん)の呼吸”でした。もう、特別なコミュニケーションがいらないんですよ。要は何も口で言わなくても、インスピレーションが一緒なので。そんな感じでした。一応、サインは出ているけれど、ボール争奪戦から出てきたボールは、平尾さん、朽木さんを経由して、どういう形でくるか、全部感覚にしみこんでいました」

(つづく)