待たれていた男が帰ってきた。

 3月から期限を定めずに休養に入っていた競泳の萩野公介が、5月から練習を再開。大会出場を視野に入れていることを明らかにした。

 萩野はリオデジャネイロ五輪400m個人メドレー金メダルをはじめ、長年にわたり第一線で活躍してきた。東京五輪でのメダルも期待されているが、プレ五輪イヤーとなった今年、プールから離れていた。

 あらためてその経緯をたどってみる。

 萩野は1月に行なわれた浜名湾選手権で低調なタイムにとどまった。その変調が明確になったのは、2月のコナミオープンだった。400m個人メドレーの予選、自己記録から17秒以上遅い4分23秒66に終わり、決勝を棄権したのだ。

練習ではうまくいっても試合では。

「体調面なのか、メンタル面なのか、総合的なものかもしれないですが、本人も分からないと申しています」

 指導する平井伯昌氏はこう説明しつつ、「練習ではうまくいってもレースではぜんぜん違う泳ぎをすることがある」とも付け加えた。その後、病院で検査を受けたが異常はなかったことを合わせて考えても、メンタル面の問題であることは推測できた。

 翌月、萩野は、海外合宿への不参加および日本選手権欠場を発表した。それは世界選手権を断念すること、その世界選手権の結果によって得られる東京五輪代表内定の機会もあきらめることを意味していたから、衝撃は大きかった。

 その状況から、しばらくの休養を経ての再始動となった。

 再始動に至った理由は「もっと泳ぎたい。高みを目指したい」という思いが湧いてきたことだったという。

「水泳が嫌いになりつつある」

 休養を決断した理由を語る中で、練習をしているのにも関わらず試合で結果が出ないことに「辛いと思っていました」と明かす。さらに休養を決める前に、平井氏に「水泳が嫌いになりつつある」と打ち明けたことも明かしている。

 練習にしっかり取り組んでいても、大会で思うような成績を挙げられない。その要因は、複合的なものだったのかもしれない。リオ五輪で頂点に立ち、しっかり練習しているつもりでも、リオの前とは心持ちに違いがあったのかもしれない。

 無理もない。小さな頃から泳ぎ続けてきて、怪我などはともかく、長く休んだことはなかった。求めていた結果を手に入れたものの、知らず知らずのうちに消耗していた面もあったのだろう。

 それでも今まで、その疲労ぶりをうかがわせなかったのは、萩野の競泳に対する真摯さだ。ただ、それに耐え切れず限界を迎えて「悲鳴」をあげた結果が休養という選択だった。

五輪の目標は複数種目での金メダル。

 思い起こせば、3月に発表したコメントの中に、こんな言葉もあった。

<自分が「こうありたい」という理想と現実の結果の差が少しずつ自分の中で開いていき、モチベーションを保つことがきつくなっていきました。>

 理想の自分と現実の自分とのギャップ。それに対する苦しみを抱えていたことが読み取れる。つまり、矛先は「できない自分」へと向けられていたのだ。自分と向き合わざるを得ない個人競技だから、なおさら、「水泳が嫌いになりつつある」だけでなく、自分自身をも嫌になる。これまで幾度となくそんな局面があったのだろう。

 それでも、萩野は戻ってきた。自らの意思であえて水泳から離れることで、泳ぐことの意味を確認することができた。距離をとったから、知ることができた。もう迷うことはないだろう。

「東京オリンピックの目標は、複数種目の金メダル」

 目指すところをはっきりと口にし、もう照準がぶれることはない。

ジャパンオープン出場勢の葛藤。

 また萩野の再始動に先駆けてジャパンオープンが行なわれ、今夏の世界選手権日本代表が決定した。4月の日本選手権では選考基準の1つである派遣標準記録を下回る選手が多く、代表内定は17名にとどまったが、ここに8名がプラスされ最終的に計25名を数える。

 ただし、派遣標準記録を突破して追加の代表入りとなったのは2名のみ。残る6名は、派遣標準記録を破れず「特別措置」(平井伯昌日本代表監督)として選ばれた。リレー種目は世界選手権で12位以内に入れば東京五輪の出場権を得られる。そのエントリーを考えての選出だった。

「リレーの派遣標準記録を突破して選ばれることを望んでいましたが……」という平井氏の言葉にも、苦悩がうかがえる。

 ジャパンオープンでは、わずかに派遣標準記録に届かず、日本代表入りを逃した選手たちもいる。雪辱を期す彼らにとっても、萩野の復帰は、勇気になるはずだ。

 それぞれ立ち位置は異なっても、来年の大舞台を目指し、進んでいく。

(「オリンピックへの道」松原孝臣 = 文)