「いろいろあったので……長い2日間でした」 試合後に憔悴しきった表情で、ポツリとこぼすこのひと言が、すべてを物語っていただろう。 最初にコートに足を踏み入れてから、足掛け19時間。トータルの試合時間は、3時間54分。 最高31度を記録した高…

「いろいろあったので……長い2日間でした」

 試合後に憔悴しきった表情で、ポツリとこぼすこのひと言が、すべてを物語っていただろう。

 最初にコートに足を踏み入れてから、足掛け19時間。トータルの試合時間は、3時間54分。

 最高31度を記録した高温多湿の前日から一転し、繰り越された翌日に待っていたのは、肌寒い雨中の戦い。ボールもまともに見えぬ薄暮、対戦相手の名を叫ぶ満席のスタジアム、日没による順延、そして、ほぼ劣勢のままに剣ヶ峰まで追い詰められた、最終セットの攻防--。

 どこから振り返ればいいのかわからぬほどに、あまりに多くが起きた、錦織圭の全仏オープン4回戦だった。



勝利した瞬間、コートの中央で憔悴した表情を見せた錦織圭

 対戦相手のブノワ・ペール(フランス)の名に、不吉な予感を喚起させられた錦織ファンは少なくないだろう。実際には、錦織は戦績でペールに6勝2敗と大きく勝ち越している。ここ最近は4連勝中で、3年間負けなしだ。

 それにもかかわらず、ペールを”天敵”と見なす向きが強いのは、2015年8月の全米オープン初戦と、続く同年10月のジャパンオープン準決勝で喫した敗戦の衝撃ゆえだろう。あるいは、昨年の全仏2回戦でフルセットの激闘を強いられたことも、記憶に新しい。

「天才」「ファニー」「クレイジー」……。フランスメディアやツアー仲間からも口々にそう呼ばれるペールは、コート上でもそれら異なる種々の顔が、次々と入れ替わるようだった。

 柔らかなタッチのドロップボレーで天性の才覚をほとばしらせたかと思えば、次の瞬間には意図すら見えぬミスを犯す。投げやりなプレーが続いたその直後に、必死の形相でボールに飛びつき、気合の咆哮をあげて観客をあおりもした。予測不能なペールのプレーにつられたか、満員に膨れ上がったコートスザンヌ・ランランの声援も起伏が激しく、時にヒステリックなまでに盛り上がる。

 迫る夕闇が砂時計のように残り時間の減少を告げ、リズムや流れを掴むのが極めて困難な状況のなか、それでも錦織がセットカウント2−1とリードした時、試合の翌日順延が告げられた。

 追い上げムードに水をさされたとはいえ、いいイメージをコートから持ち帰れたのは、錦織のほうだったろう。現に彼は「昨日のいいプレーを続けられるかな」と思い、翌日の試合に向かっていたという。

 だが、対するペールにも、「普通なら錦織が3セットで勝っている試合だった」との思いがあり、だからこそ、命拾いしたチャンスを生かしたいとの決意があった。

「今日は朝から調子がよかった。試合が始まった時も、身体もどこにも痛いところがない。『よし、昨日よりいいサーブを打てば、何かが起きるぞ』と自分に言い聞かせ、実際にそれができた」

 その本人の言葉どおり、曇天に覆われた翌日のコートに戻ってきたペールは、高い集中力を発揮した。長い打ち合いを嫌がらず、なおかつ意外性あふれるドロップショットや強打をも繰り出す。一進一退の神経戦となったタイブレークの末にペールが第4セットを制し、試合は第5セットへともつれこんだ。

 ファイナルセットを迎えた時、錦織は深い疲労を覚えていたという。雨を含み、足もとやボールが重くなったことも、体力を削られた要因だ。

「足が思うように動いてくれなかった。一歩踏み出すステップが遅くなったり、ディフェンスの時に足が動かなかったり……」

 加えて精度を高めたペールのサーブが、精神に重圧をかけてくる。簡単にゲームをキープするペールに対し、錦織のサービスゲームは常にデュースまでもつれ、2度までも相手に先にブレークされる。

「正直、ファイナルセットは勝てると思ってなかった」

 試合後に錦織は、素直に胸のうちを明かした。

 ゲームカウント5−3とリードしたペールが、勝利へのサービスゲームへと向かった時、観客のボルテージは最高潮を迎える。ところが、ここでのペールはファーストサーブが入らず、ダブルフォルトを犯した。

 飄々とした佇(たたず)まいでプレッシャーとは無縁に見えた彼が、この時に戦っていた相手は、制御不能なまでに膨れ上がった勝利への渇望だったという。

「大声援を受け、ローラン・ギャロスのベスト8に勝ち進むということは、僕にとって……すべてのフランス人選手にとって、ものすごく大きな意味を持つんだ」

 真摯な表情で、試合後の彼は言う。

「この大会で4回戦に来たのは、僕は初めて。5−3のサービスゲームの時には、これに勝てば準々決勝で(ラファエル・)ナダルと対戦できるということを、考えずにはいられなかった」

 キャリア最大の舞台へのやや先走った思いが、ベテランに差しかかった30歳の手もとを狂わしていた。

「最後のほうは、気力だけで戦っていた状態」だった錦織に、相手の動揺を見る余裕はなかったかもしれない。それでも、3−5とリードされたゲームの最初のポイントで決めたハーフボレーが、大きな意味を持つことは感じていた。

 ポイントで先行したことが思い切りのよいプレーを可能にし、鋭いリターンでブレーク奪取。そこからの錦織はファーストサービスの確率も上げ、落胆したペールを一気に畳みかける。ゲームカウント5−5の相手ゲームをブレークすると、続く自らのサービスゲームでは絶妙なロブを、そして最後はサービスウイナーを決め、2日にわたる死闘に終止符を打った。

 その瞬間、満員に膨れ上がったコートスザンヌ・ランランに立ち込めたのは、落胆と失意のため息である。

 まばらな拍手と雨を背に受け、孤独な戦いを制した彼は、精根尽き果てたようにコート中央にしゃがみこむと、しばらく身じろぎもしなかった。