錦織圭がクレーコートでの理想のテニスを頭のなかに描く時、思い出すのは5年前の”赤土の王”との、あの熱い戦いだという。 2014年――。この年、元全仏オープン覇者のマイケル・チャンをコーチにつけた錦織は、初夏の欧…

 錦織圭がクレーコートでの理想のテニスを頭のなかに描く時、思い出すのは5年前の”赤土の王”との、あの熱い戦いだという。

 2014年――。この年、元全仏オープン覇者のマイケル・チャンをコーチにつけた錦織は、初夏の欧州で躍進の季節を疾走していた。



全仏オープンの会場で練習に励む錦織圭

 かつては「どうやってプレーしたらいいのかわからない」ほどに、苦手意識を抱いたクレーコート。その赤土の地で錦織は、守備から攻撃へのトランジションを明確にし、ボールの跳ね際を叩き早い展開力で主導権を掌握する、新たなスタイルを確立した。

 その革新性の正しさを自ら証明したのが、マドリード・マスターズの決勝戦。当時世界1位のラファエル・ナダル(スペイン)を向こうにまわし、錦織は幾度も王者を立ち往生させるエースを奪い、試合を支配し続けた。最終的には、勝利を目前にしてケガで途中棄権を強いられたが、あの試合は今でも錦織のなかで「クレーコートのベストマッチ」として、特別な地位を占めている。

 それから5年の年月が流れ、周囲が錦織に抱く警戒心や分析の目も変化した。ナダルがクレーで猛威を振るっているのはあいかわらずだが、新旧の入れ替わりも当然ながら進んでいる。かつて錦織が革新的なスタイルを引っさげ、赤土につけた足跡に、続く若者たちも少なくない。

 そのような自身の立ち位置も踏まえ、錦織は全仏直前の会見でクレーコートを「タフはタフですが、自分にあっているなと思います。ディフェンスが生かされるのがクレーだし、ディフェンスから前の動きが生きたり……」と述べたうえで、こう続けた。

「今日、くるみちゃんの試合を見ていて、すごくインスパイアされたというか、いい動きをしているなと……。ちょっと刺激になりました」

 錦織がここで言う「くるみちゃん」とは、日本女子テニス界のトップ選手である、奈良くるみ。ここ半年ほどはランキングを落とし、今回の全仏は予選からの参戦となったが、そこで厳しい3試合を勝ち抜き、本戦への切符を掴み取っている。錦織が「インスパイアされた」試合とは、その予選の決勝戦だった。

 身長155cmの小柄な奈良にとって、大柄な欧米の選手相手にいかに戦うかは、常につきまとう命題だ。その彼女が、数年前に急成長を果たした過程で「お手本」にしたのが、錦織である。とくに2014年は錦織と同じ大会に出ることも多く、プレーを間近に見る機会も増えた。

 そうして、錦織のプレーをつぶさに観察した彼女が、とくに感銘を受けたのはバックハンドだったという。

 クロスへのショットひとつをとっても、角度のつけ方や高低差、回転量やタイミングなど、あらゆるバリエーションに富んでいる。さらに奈良は、そのバックを活かすための組み立てや動きも、錦織のそれを参考にした。時には自ら錦織にアドバイスを求め、一緒にボールを打ってもらうことで、多くを得たこともあったという。

 そのようなプロセスを経て確立したテニスを、奈良は今大会の予選3試合……とくに2回戦と決勝戦でコート上に描ききった。

 クロスからストレートへの展開に加え、コート前方の空間を用いた角度あるショットで、相手を前後左右に揺さぶっていく。あるいは、高い軌道のボールで相手を押し下げ、返球には身体ごとボールにぶつかるように前に踏み込み、早いタイミングで鋭いショットを叩きこんだ。

 その奈良のテニスを見て、錦織は「いい動きをしているな」と、刺激を受けたという。

 この時、錦織が奈良のなかに見ていたもの――。それは、彼自身がかつて体現した、クレーでの理想のテニス像だったのかもしれない。

 今季のクレーコートでの戦いを、錦織は「物足りない感はある」と振り返った。試合勘や自信を、実戦のコートで十分に得たとは言い難い。

 代わりに、早めに会場入りして積み重ねてきた練習で、「毎日ちょっとずつよくなっている」との感触は得られているという。今大会からはチャン・コーチもチームに加わり、さっそく、技術面や戦術面でも仔細なアドバイスを受けた。ショットの精度や質を高めつつ、いかにそれらを統合し、ポイントに、そして勝利につなげるかを模索する日々。

 そのなかで目にした、数年前の自分のプレーを保存したかのような奈良のテニスは、彼が追い求めるべき地点を指し示す羅針盤となったかもしれない。