スポーツの世界では、最後の最後はもう神の力に頼るしかない、と考える人がいるものだ。マルク・マルケス(レプソル・ホンダ・チーム)のライバルたちが日曜の午後に天を仰いで神の力添えを祈らざるをえない、という事態に陥ったのは、なにも今回が初め…

 スポーツの世界では、最後の最後はもう神の力に頼るしかない、と考える人がいるものだ。マルク・マルケス(レプソル・ホンダ・チーム)のライバルたちが日曜の午後に天を仰いで神の力添えを祈らざるをえない、という事態に陥ったのは、なにも今回が初めてではない。この7週間では3度目のことなのだが、やはり今回も、天は何も応えてはくれなかった。



第5戦・フランスGPでも圧倒的な強さでレースを制したマルク・マルケス

 王者に最後までなんとか食らいついていたのは、ジャック・ミラー(プラマック・レーシング)だ。8周目以降は両者の距離が一方的に開いてゆき、ミラーはすがりついた藁(わら)を掴んだまま取り残される格好になった。

「何度か8コーナーでマルクがワイド気味にはらむのが見えたときは、何か起こってくれと祈っていたよ」とミラーは振り返った。「それ以外に彼を捕まえることなんて、できそうもなかったからね」

 力及ばず終わったのは、なにもミラーひとりではない。アンドレア・ドヴィツィオーゾ(ドゥカティ・チーム)はレース後のプレスカンファレンスで、「(マルケスに対抗するためには)何か見つけなければいけない」と憮然とした表情で話した。

 この言葉もまた、マルケスがどんどん不可蝕領域へ遠ざかっていることをよく示している。成す術(すべ)もないままレースを終えたドヴィツィオーゾは、「自分たちが改善していければ、まだ戦うチャンスはある」とも述べた。「そのチャンスがなければ、あとはミスを祈るのみだよ」

 マルケスが余裕の走りで完勝を収めるのは、別に今に始まったことじゃないだろうと、あなたは思うかもしれない。たしかに、ここまでのレースで最大125ポイントのうち、95ポイントを獲得している状態は、昨年の第5戦終了時とまったく同じだ。

 だが、今年のマルケスのアプローチは、今までとは少し異なっている。

 今回のレースを振り返ると、レース開始からチェッカーフラッグまでに唯一、勝負を仕掛けることができたのは、ミラーのみだ。3コーナーでイチかバチかの勝負に出たミラーは、かろうじて5周目と6周目にトップに立ったものの、それを除けばマルケスはアルゼンチン(第2戦)のスタートシグナルが消灯してからル・マン(第5戦・フランスGP)のチェッカーフラッグを受けるまで、ずっと先頭を走り続けているのだ。

 今年の5戦を振り返ってみると、マルケスは全119周のうち、84周でトップを走行している。これは、レース周回数の70パーセントに相当する。そのうち優勝した3レースでは、77周中75周で後続選手を一方的に引き離して先頭を走行していた。

 77周中75周といえば、実に97パーセントである。この数字を見る限りでは、バトル上等が持ち味のマルケスよりもむしろ、無敵の王者ミック・ドゥーハンのものかと思いたくなるほどだ。

 過去のデータと比較すれば、今年の傾向はさらにくっきりと浮かび上がる。

 去年は、全18戦中でマルケスがトップを走行したのは、431周中の29パーセント。彼が優勝した9勝を見ると、221周中の100周、すなわち45パーセントでレースをリードしていた計算だ。

 マルケス自身が無敵だと感じていたという2014年シーズンを見ても、全448ラップ中で彼がトップに立っていたのは”たった”47パーセントにすぎない。この年に勝利した14戦に注目しても、先頭を走っていたのは全周回の半分を少し上回る程度(324周中184周、56パーセント)なのだ。今年の77周中75周でリード、という内容からは、はるかに劣る。

 王者はその力を誇示するために、新鮮なモチベーションと新たな勝ちパターンを常に模索しているものだ。ドゥーハンは最盛期以外でも容赦のない勝利を続けたライダーだったが、それを可能にしたのは、常に気持ちを新たにし、さらなる高みを目指すことのできた彼の能力ゆえだ。

 1995年に易々と王座を手にしたドゥーハンは、翌96年はさほど熱心にトレーニングにもとりくまず、接戦を歓迎するふしもあった。だが、その次の年はハードルを上げることを自らに課した。NSR500のビッグバンエンジン仕様から、さらにワイルドでライバルたちの手に余るスクリーマーエンジンを唯一選択したのだ。「みんなの心を乱してやろうと思ったわけさ」というコメントは、昨年に彼に会った際に聞いた話だ。

 ル・マンのレースウィーク初日を終えた金曜日にマルケスが述べたのは、新しい戦術としてドゥーハンのこの計略を用いて、ドヴィツィオーゾやアレックス・リンス(チーム・スズキ・エクスター)たちの決勝に向けた積み上げを攪乱しようというものだった。

「ライバルたちに向けて、ちょっと違った戦略を立てなきゃならないこともあるんだ」とマルケスは明かした。「そうじゃないと、手のうちを読まれてしまうからね。あるレースでは最初から果敢な走りで、次のレースではタイヤを温存するライディングをしていると、攻めているのか、無理しているのか、相手には判断できなくなるよね」

 このような策略は、なにも決勝レースに限ったことではない。

 ヘレス(第4戦・スペインGP)のフリープラクティス(FP)1回目では、大半の選手たちがミディアムコンパウンドかソフトコンパウンドのリアタイヤに合わせこむセットアップを模索していたが、その一方でマルケスは、全セッションをハードタイヤで走り続けた。そして午後になると、FP2の大半で、今度はリア用にソフトを装着して走っていたのだ。

 理屈に合わない見当違いの方向性にも見えるけれども、それでもマルケスは速かった。そうすることにより、どんなタイヤを履いても日曜の決勝は抜きん出て速い、ということを見せつけたわけだ。

 だが、マルケスは心理的なゆさぶり戦術のみで勝利を手にしたわけではない。

 日曜の決勝レースで、ホンダは最高峰クラス300勝を達成した。マルケスが挙げた勝ち星は、そのうちの47。これはチームメイトのホルヘ・ロレンソと同じ勝利数で、史上4位だが、この数字こそ彼の適応能力の高さをよく示している。ハードブレーキングでシビアにならないことを狙って作り込まれたホンダの2019年仕様には、ライダー側のアプローチを変えていくことが必要なのだから。

 去年以上にパンチの効いたパワフルなエンジンのバイクで、「去年とは違う方法でラップタイムを出すようにしているんだ」とマルケスは話す。だからこそ、「違うタイヤを使って乗り方を変えている」のだとか。

 今回のウィークでは、金曜日にまたしてもスーパーセーブで転倒を回避したものの、レースでのマルケスは今までと違って、ブレーキングでイチかバチかの勝負に出るような走りをしなくなっている。彼の走りを目の前で見ていたミラーは、その点を見逃していない。

「マルクは、べつにビックリするようなブレーキングをしていない」と証言している。「ブレーキングでは、どこのコーナーでもマルクを捕まえることができそうだったよ」

 この点について、マルケスは今回の優勝後に、以下のように説明をしている。

「今、リスクを賭けているのはブレーキングポイントじゃなくて、旋回だね。キツいのはその部分なんだ。もっとエンジンバイクなら、去年ドビやホルヘがどんなふうに乗っていたのかもわかってくると思う」

 マルケスの上記の言葉は、昨年後半にドゥカティファクトリーがトップスピードと加速性で勝っていた点を指している。だが今では、旋回速度と加速性は、むしろマルケスの強みである。ル・マンの最終区間セクター4で0.1~0.2秒を稼いでいたのが、その証拠だ。

「あそこはブレーキングポイントで損をしないし、コーナーでがんばればいいだけだからね」

 ブルノ(第10戦・チェコGP)やレッドブル・リンク(第11戦・オーストリアGP)はドヴィツィオーゾの得意コースだったが、それももはや過去の話となりそうである。

 日曜の決勝で、マルケスはフロント用にミシュランのソフトコンパウンドタイヤを装着して勝利を収めた。彼がフロント用にソフトを入れてレースに臨んだのは、2016年のオースティン(第3戦・アメリカズGP)に続き、今回がわずか2回目だ。

 これは、路面温度が19℃という低温だったことにも理由はあるが、今年型のRC213Vがフロントタイヤにあまり負荷をかけないためでもある(マルケスとは対照的に、2018年型のマシンに乗る中上貴晶はただひとり、フロントにハードタイヤを装着してレースに臨んだ)。つまり、旋回性に勝る特性のソフトコンパウンドを、今は使いこなせているのだ。

 しかし、このソフトタイヤをうまく使うには、それなりの注意も必要だ。ソフトを使うということは、熱が入り過ぎる危険性と背中合わせで、近年のRC213Vはずっとこのクセに悩まされてきた。「他のライダーの後ろにつくと、オーバーヒートするよ」と、マルケスはスリップストリームで他車の後方についたときに空冷効果を得られない場合を例に挙げている。

「ソフト(のフロントタイヤ)を履いているときは、誰かの後ろにいると厳しくなるから、新鮮な空気を得るためにがんばって攻めるんだ」

 だからこそ、ミラーが2周にわたってトップに立っていたときに、マルケスはすぐに反応したというわけだ。この点について、マルケスの新しいレースアプローチは必然から生まれたもの、ということができるだろう。

 あまりにも能力が卓越しているために、マルケスはほとんど不可能なことを、いともあっさりとやってのけているように見える。しかし、彼が今シーズンの実戦に臨む前に、完璧に近い体調で新しいスタイルを試すことができたのは、プレシーズンテスト1回だけなのだ。

 対照的に、カル・クラッチロー(LCRホンダ・カストロール)は今年型マシンの特性に対応しきれていない。昨年は表彰台候補の常連だったものの、今年はまだコーナーに気持ちよく入っていく方法を見つけていないのだ。ヘレスで8位、ル・マンでは9位というリザルトが、その証拠である。

「データを見れば、マルクが何をやっているかはわかる。でも、ほかの誰にもそれを実践できない。単純な話さ」

 同じホンダ陣営選手のテクニックについて、クラッチローはこう説明する。

「進入から一次旋回で、バンク角を稼いでいって、それをフロントとリアブレーキでコントロールするやり方が、マルクの場合はかなり特殊なんだ」

 そう考えると、マルケスがミラーの弱点を突いて先頭を奪回した行為に、まさに神にもすがるようなごくわずかの啓示を見いだすことができる。

 次戦のムジェロ(第6戦・イタリアGP)で、ドゥカティが2、3台マルケスの前を走れば、即座に反応して前に出るのが不可能になり、フロントタイヤの熱と格闘することになるかもしれない。レースの興趣(きょうしゅ)という観点からも、誰かが何かしらの手を打つ必要がある、しかもできるだけ早いうちに。さもなくば、7度も世界の頂点を制覇した王者は、いともあっさりとライバルたちの最後の晩餐の儀式を執り行ってしまうだろう。

 そしてこの競技では、神はけっして救いの手を差し伸べはしないのだ。