トヨタ自動車の悲願の初優勝で幕を閉じた第87回都市対抗野球大会。■日産自動車の主力選手だった伊藤祐樹さん「なかなか東京ドームに足を運べなかった」 トヨタ自動車の悲願の初優勝で幕を閉じた第87回都市対抗野球大会。どのチームが都市対抗野球大会に…

トヨタ自動車の悲願の初優勝で幕を閉じた第87回都市対抗野球大会。

■日産自動車の主力選手だった伊藤祐樹さん「なかなか東京ドームに足を運べなかった」

 トヨタ自動車の悲願の初優勝で幕を閉じた第87回都市対抗野球大会。どのチームが都市対抗野球大会に出てもおかしくないと言われている戦国、神奈川で出場29回、2回の優勝経験を持つのは、2009年2月に休部が発表されてから今年で7年が経つ「日産自動車野球部」だ。都市対抗野球大会が開催されていた東京ドームのスタンドに、「ミスター日産」と呼ばれた伊藤祐樹さん(44)の姿があった。伊藤さんは現役生活15年で都市対抗野球大会に13回出場、そのうち優勝2回(※1回は三菱ふそう川崎=2013年解散=の補強選手として)、準優勝を2回経験している。伊藤さんは、どんな思いで試合を見つめているのだろうか。話を聞いた。

――休部になってから、都市対抗野球大会の試合を見に来たことはありましたか?

「ここ数年で何回かありますが、休部になってからしばらくは見に来ることができませんでした。日産野球部は、周りから『都市対抗野球大会に出て当然』と思われていましたし、自分たちもそう思っていました。『負けたら終わり』というプレッシャーの中で失敗は許されない。身を裂くような思いで予選を戦います。その舞台を離れてからは、寂しい思いが大きく、なかなか東京ドームに足を運べませんでした」

――伊藤さんにとって、都市対抗野球大会とはどんなものでしたか?

「予選は絶対に勝たなくてはいけない大会でした。本選で負けるより、予選で負けて出られない方が悔しかったですね。本選に出られなかった時は、大会は見ずに、熱い中で猛練習をします。グラウンドは横浜市の市沢にあり、本社は当時、東銀座にありました。8時半始業でしたから、6時には起きなくてはいけない。それは本当に大変でした」

■受け継がれていた「日産魂」

――他チームの補強選手として出場した時のお気持ちは?

「『三菱ふそう川崎』の力になり、優勝できたことは素直に嬉しかったですね。最初はどうすればチームの力になれるか悩みました。しかし『自分のやってきたことが認められたから補強選手に選んでもらえたんだ』と考え、普段通りのプレーをすることにしました。『三菱ふそう川崎』の選手たちも心よく受け入れてくれたので、いい結果が出せたと思います」

――日産野球部最後の年、都市対抗野球大会に出場しました。どのようなお気持ちで大会に挑みましたか?

「日産野球部の歴史を築き上げてきたOBの方々はじめ、応援してくれた会社の方々、日産野球部のファンの方々に感謝して、その思いに恥じない戦いをしようと思いました。ベテランも1年目の新人も、全員同じ仲間として、日産野球部の最後を戦い抜こうという気持ちで挑みました。全員が同じ方向を向いて、タフに最後までやり通す。そして『人を大切にする』『相手を思いやる気持ち』を持つ。これが『日産魂』です。この思いを胸に全員で戦いました」

■練習場跡地に立ち並ぶ分譲住宅、「廃部」ではなく「休部」も復活への動きなし

――グラウンドもなくなってしまったと聞きました。

「汗と涙が染み込んだ思い出のグラウンドが、雑草が生えて荒れ果て、トラックが入ってネットが撤去されました。その光景を見ているのが、本当に辛かったです。今では跡地に分譲住宅が建ち並んでいます」

――日産野球部から他のチームに移籍した選手に対してのお気持ちは?

「休部が発表された2009年2月から、活動が終了する12月末まで、10か月で日産野球部のやってきたことをすべて伝えなくてはいけませんでした。『日産魂』は伝えたつもりでいます。日産野球部から1年でJFE東日本野球部に移籍した中野大地捕手は、今シーズンからキャプテンを任せてもらっています。本当に頑張ったと思います。チームを任せられるというのは、思いがないとできません。勝ち負けだけでなく、チームを1つにまとめる力が必要です。日産野球部での思いが、少しでも心に残ってくれていれば。と思っています」

 伊藤さんは現在、本社の「日本戦略企画本部 ビジネス&データサイエンス部」で国内営業の総務グループに所属し、さまざまなデータを販売会社に発信する業務に就いている。残念ながら、社内では野球部復活への動きはないと話す。現在は年に数回、野球教室を行い、活動を続けている。日産自動車野球部は「廃部」ではなく「休部」。名門野球部の勇姿が再び見られることを期待したい。

篠崎有理枝●文 text by Yurie Shinozaki