昨年末、有名タレントがMCを務めるテレビ番組に、自身の悩みを打ち明ける”元プロ野球選手”の姿があった。 安定した月収を手にできる飲食店の雇われ店長になるべきか、給与額は劣るものの、引き続き野球に携わることのでき…

 昨年末、有名タレントがMCを務めるテレビ番組に、自身の悩みを打ち明ける”元プロ野球選手”の姿があった。

 安定した月収を手にできる飲食店の雇われ店長になるべきか、給与額は劣るものの、引き続き野球に携わることのできる指導者のオファーを受けるべきか。この2つの選択で迷っていると相談し、悩み抜いた末、指導者の道に進む意思を固める……という番組内容だった。

「(契約が発表されたのが)番組放送の直後だったので、『このオファーを受けるか迷っていたんだね』といろんな方から言われるんですが、じつは違うんですよ」



昨年現役を引退し、今年から愛媛マンダリンパイレーツのコーチとなった白根尚貴

 苦笑交じりに説明するのは、ソフトバンク、DeNAの2球団で計7年プレーした白根尚貴(しらね・なおき)だ。昨シーズンオフに戦力外通告を受け、現役引退。今季から、四国アイランドリーグplus・愛媛マンダリンパイレーツの野手コーチを務めている。

「番組の収録を終えて、お話をいただいていたチームに返事をしようと思っていたタイミングで、愛媛からコーチの打診をいただきました。どちらも魅力的なお話でしたが、独立リーグはNPBを目指す選手が集まる場所。好きな野球を仕事にするという、すばらしい経験をさせてもらった世界に選手を送り出せることに魅力を感じて、愛媛にお世話になることを決めました」

 件の番組が放送されるまで、白根の去就は不透明なものだった。昨年11月に開催された、12球団合同トライアウトも不参加。戦力外を言い渡されてから、引退を決断するまでの流れはどんなものだったのか。

「戦力外通告を受けた直後は、現役続行を基本線に考えていました。動いていくなかで、ホークスを自主的に退団して、トライアウトを受験したとき(2015年)の記憶が蘇ってきて……。当時、トライアウト受験後、ベイスターズから電話が来るまでに1週間時間があったんです。その間に感じた『オレはどうなるんだろう』という不安に、もう一度耐えられる自信が湧いてこなかった。仮に他球団からオファーが来たとしても、こんな気持ちでは1年後も同じ結果に終わってしまう。この状態でプロの背番号をつけるべきではないと思い、現役引退を決断しました」

「山陰のジャイアン」の愛称で親しまれた開星高(島根)時代は、投打の柱として計3度の甲子園出場を果たした。高校通算40本塁打の長打力と、右方向にも打てる技術を武器にプロへと飛び込んだが、入団直後の春季キャンプで、いきなり”洗礼”を受けた。

「入団する前は、『プロはあまり練習しない』というイメージを漠然と持っていましたが、いざキャンプが始まると練習量の多さに圧倒されました。当時チームの主力だった小久保(裕紀)さん、松中(信彦)さんは、全体練習が終わった後も最後まで残ってバットを振っている。”超一流”と呼ばれる方々が、どの若手よりもストイックに練習をしている姿を見て、『とんでもない世界だ』と、衝撃を受けました。自分が追いつくには、24時間バットを振り続けても足りないんじゃないかと思ったほどでした」

 抱いていた自信が早々に打ち砕かれただけでなく、故障にも悩まされた。

「入ってすぐに手術(トミー・ジョン手術、肘頭骨棘除去手術)を受けて、プロ1年目を棒に振ってしまった。2年目に復帰できましたが、木製バットに対応できず、打球が全然飛ばない。木製に慣れてきたのは、3年目になってからでしたね」

 体の不安もなくなった3年目は、三軍戦でチームトップの10本塁打を記録した。4年目は育成選手への契約変更もあったが、二軍のレギュラーに定着。オフの育成契約更新を断り、トライアウト参加を経て、DeNAに支配下選手として移籍した。

 移籍初年度の2016年に一軍初出場を果たし、ファームでもイースタン最多の118安打を記録。さらにリーグ最多タイの二塁打を放つなど、確実性、長打力両方で成長の跡を示した。

 そして、2017年に一軍初本塁打を放つ(6月17日・オリックス戦)。高校の先輩にあたる、梶谷隆幸から譲り受けたバットで放った”メモリアル弾”だった。

「環境を変えたことによる気づきがあって、逆方向に長打が打てるようになった。練習でバックスクリーンに放り込めるだけの力も着いてきて、一軍でホームランを打つことができました。少しずつではありますが、前に進んでいけたのかなと」

 手応えを胸に臨む7年目のシーズン開幕直後に、思わぬ一報が白根に影を落とした。

 昨年4月に母・みゆきさんが帰らぬ人となった。女手ひとつで育て上げてくれた肉親を失った喪失感は、想像を絶するものだったに違いない。

「母を亡くしたことで、気持ちの整理に時間がかかったかもしれません。たくさんの方々から『気の毒だね』と労わっていただきましたが、プロである以上、そこは言い訳になりません。戦力外になったのは、100%自分の実力不足が原因なので」

 指導者に転身して数カ月。選手たちに繰り返し伝えている言葉があるという。

「『指導者をうまく使ってくれ』と伝えています。あまり聞こえのいい言葉ではありませんが、成長するために、どんどんコーチを利用してほしい。彼らの目標であるNPBの環境についても、積極的に聞いてもらえたらいいな、と思っています」

 規模の違いはあるものの、給与を得ながらプレーする独立リーガーは”プロ”として扱われる。熾烈な競争社会で戦ってきた経験から、こう付け加える。

「結果を出すためのサポートは監督、コーチが全力でします。けれどもプロである以上、結果に対して責任を持つのは自分自身。指導の合う、合わないは必ず生じるものなので、複数いるコーチをうまく使って、アドバイスを取捨選択していってほしい。その代わり、結果が出なかった時に指導を逃げの理由にするのはやめようと伝えています」

 今年で26歳。指導者陣最年少として、自身の役割を語る。

「河原(純一)監督をはじめ、NPBの第一線で長らくプレーしていた方々は、非常に優れた感覚論を持っています。けれども、NPBを目指している選手が、理解が不十分なまま取り入れようとするとうまくいかないこともある。僕は輝かしい活躍はできませんでしたが、曲がりなりにも7年間積み重ねた経験があるので、実演も交えながら噛み砕いて伝えていきたいと思っています。指導者と若い選手たちの橋渡しができれば……」

 コーチ就任が正式に決まった際に、母の墓前だけではなく、”ふたりの恩師”に一報を入れたという。

「小、中学生時代に指導していただいた乃木ライオンズの樋口近(ちかし)監督、開星でお世話になった野々村直通先生に、決定後すぐに電話をしました。小学1年から中学卒業までの9年間教わった樋口監督は、僕の野球における”土台”をつくってくださった方です。その土台を基に、厳しい世界で勝負できる技術と心を鍛えてくださったのが野々村先生。心の底から”恩師”と呼べる方がふたりもいるのは幸せなことですし、今度は僕が選手たちから恩師と呼んでもらえる存在にならないといけないとも思っています」

 恩師のひとりである野々村直通氏は、指導者に転身した教え子をこう評し、エールを送る。

「見かけによらずと言ったら失礼だけれども、白根は繊細さを持っているし、洞察力もある。高校時代は自分を追い込み切れない面があったが、やったほうがいいこと、自分に足りないものは理解しとったからね。指導者の適性は十分あると思うし、頑張ってほしいですね」

 取材が終わりに差し掛かってきたころ、白根は「松山とは何かと縁があるんですよね」と口にした。

「ホークス時代、アイランドリーグとの交流戦で来ていますし、プロ初スタメン(2016年4月16日・東京ヤクルト戦)も坊っちゃんスタジアム。契約で訪れて、久々に街並みを見た時も『懐かしいなあ』と思ったぐらいで」

 そして、こう続けた。

「プロ初出場の試合だけでなく、ホークス三軍時代の松山でのゲームにも母は応援に駆けつけてくれました。応援してくれた母にとっても、思い出深い場所だったと思います。一度は失いかけた野球を再び生業にできるのはすごくうれしいことですし、コーチのお話をいただいた時に、『やっと母に顔向けできる』と思えたんです」

 オレンジの公式戦ユニフォームには、DeNA時代と同じ「60」の背番号が入っている。

「60が空いていたので『それなら』と思い、決めました。初めて公式戦のユニフォームを着たときは、グラウンドでプレーしたくなりましたね(笑)。でも、自分のなかで気持ちの区切りはつけましたし、プレーしたいと思えるのは、それだけ体も動くということ。まだ数カ月ではありますが、指導するなかで、選手時代と違った面白さを感じています。選手たちに近い、寄り添える存在として、とことんやっていきたい」

 こう語った後、自主練習を続ける選手たちのもとへ向かって行った。松山の青空の下、真新しいノックバットを片手に指導する表情に、テレビに映し出されていた迷いは一片も残っていなかった。