相手のリターンがラインを割った時、彼女は天を仰ぎ見ると、夜空に大きくひとつ息を吐き出した。「そうね……『安堵』が、おそらくはもっともふさわしい言葉だと思うわ」と、彼女はその時を振り返り、自身の胸のうちを探る。「相手は、とくに終盤に向かうに…

 相手のリターンがラインを割った時、彼女は天を仰ぎ見ると、夜空に大きくひとつ息を吐き出した。

「そうね……『安堵』が、おそらくはもっともふさわしい言葉だと思うわ」と、彼女はその時を振り返り、自身の胸のうちを探る。

「相手は、とくに終盤に向かうにつれて調子を上げていたので、試合を締めくくるのが難しかった。だから勝った時はホッとしたし、同時にとてもうれしかった。だって、その前の彼女との試合の後にどんな気分だったか、覚えているから……」

 種々の感情が入り交じる複雑な表情の訳を、彼女はそう説明した。



コート上でも笑顔を見せるようになった大坂なおみ

 世界1位に座した大坂なおみが、「前年優勝者」として帰還したBNPパリバ・オープンの初戦(1回戦免除の2回戦)で当たった相手は、くしくも2週間前のドバイ・オープンで対戦したばかりのクリスティナ・ムラデノビッチ(フランス)だった。現在のランキングこそ65位だが、わずか1年半前は世界の10位。ジュニア時代から将来を嘱望された、才能豊かな選手である。

 そのムラデノビッチに大坂は、全豪オープン優勝後に初めて挑んだドバイ大会の初戦で完敗を喫していた。世界1位の重圧に加え、サーシャ・バインコーチとの離別を巡る憶測……。自身に向けられる過剰な注視と、耳を塞いでも聞こえる流言蜚語(ひご)の類いは、「人に注目されるのが苦手」という21歳の心を千々(ちぢ)にかき乱す。

 ドバイでの敗戦後の会見で、「なんで私、泣いているのかしら……」と目もとを拭う彼女は、「皆が私のことを、ジッと見つめているように感じる。それも、いい意味ではなくて」と言葉を絞り出した。

 その忘れがたい敗戦の苦味は、若き新女王を成長させてくれたという。

「みんなが私を”前年優勝者”として見るなかで、ドバイで負けたばかりの相手と戦うのはいいことだった。だって私は、いつも多くを敗戦から学んでいるから。今回も、前回の対戦から学んだことを活かすことができたと思う」

 その「学んだこと」とは、主に「ポジティブな姿勢を保ち、相手に何も与えないこと」。そして、「確率の高いショット選択をすること」だったという。

 ドバイでの対戦時には、「エースか、ミスか」というリスクの高い選択を繰り返し、結果として敗戦に陥った。その同じ轍(てつ)を踏むまいと、この試合では高い確率でファーストサーブを入れ、その後の展開で打ち合いを支配する。第1セットを6-3で奪った直後には、2週間前に就任したばかりのジャーメイン・ジェンキンス新コーチをベンチに呼び寄せ、「外部の視線から見た意見」を求めた。

 そのコーチからの助言で大坂が覚えているのは、「重要な局面では、ライン際を狙い過ぎず、ボールをコート内に収めること」と、「ポジティブな姿勢を維持すること」。さらにコートサイドの集音マイクは、「試合前に話していた、サーブのスピードに変化をつけることはしっかりできている」というコーチの声を捕らえていた。それらはいずれも、まさに「前回の敗戦から学んだこと」である。

 この勝利は、大坂が世界1位になってから初めて得た白星だが、本人はそのような捉え方はまったくしなかったという。コートに立てば、思うことは「前回敗れた相手に勝ちたい」の一点のみ。練習コートに向かう時には、「たくさんの人が待っていて、とてもナーバスになった」彼女だが、センターコートに続く通路を歩く時には、落ち着き払っていたという。

 もしかしたら、今の彼女にとって試合のコートは、一番自分らしくいられる場所なのかもしれない。現にこの日の試合中も、チェンジオーバー時に流れる音楽に合わせ客席で踊る3人の子どもが、彼女の心を和ませた。試合終盤には、「ものすごく寒いから、早く試合を終わらせて!」と叫ぶ観客の声を耳にして、笑いをこらえるのに必死だったという。

「観客たちが試合に入り込み、楽しい時間を過ごしていると感じられた。それが私を、うれしい気分にさせてくれたの」

 ドバイでは、理由のわからぬ涙に頬(ほほ)を濡らした彼女は、そのわずか2週間後には、自然と緩みそうになる頬をなんとか引き締めていたというのだ。

 コートを離れれば、うつむき加減で歩くシャイな彼女は、「注目されることには、まだ慣れない」と打ち明ける。だが、重圧とともにその視線を受け止めることで、実戦のコートではリラックスする術(すべ)も急速に修得中だ。

 この日吐き出した安堵の息は、彼女をまたひとつ、次のステージへと押し上げる推力となる。