日本一愛される柔道部へ 「日本一愛される柔道部になろう」ーー。この目標を掲げ、田中大勝(社=青森北)は一年間主将として早大柔道部を引っ張ってきた。辛い時、苦しい時、チームを鼓舞しいつも先陣を切って道しるべとなってきた田中。ここまでの道のりは…

日本一愛される柔道部へ

 「日本一愛される柔道部になろう」ーー。この目標を掲げ、田中大勝(社=青森北)は一年間主将として早大柔道部を引っ張ってきた。辛い時、苦しい時、チームを鼓舞しいつも先陣を切って道しるべとなってきた田中。ここまでの道のりは決して平たんではなかった。ケガやチーム作りに苦戦しながらも、柔道部のために駆け抜けた田中の四年間を振り返る。

 もともと兄がやっていた影響でやり始めた柔道。5歳の時から始め、気付けば17年が経っていた。本格的に上の世界を目指すようになったのは、高校生の頃。初めて全国大会に出場することができ、田中にとって大きな自信になった。高校卒業後は、もっと高いレベルで柔道がしたいと思い、早大柔道部に入部することを決めた。青森から東京へ上京することへの不安はあったが、それよりも上手な人と対戦できるわくわく感が上回った。

 入学してすぐ、全国のレベルと自分のレベルとの差を感じることになる。しかし、いろんな大学の人たちと対戦する機会が増えていくことが、田中にとってレベルアップにつながった。そんな田中には2年生の時にターニングポイントとなった試合がある。全日本ジュニア体重別選手権(全日本ジュニア)で3位に入賞した試合だ。以前この大会に高校生として出場したときは、大学生相手に1分足らずで負けてしまった。同じ大会で3位に輝いたことは自分の努力が報われたように思え、自信になっていった。またその後、強化メンバーに選ばれたことで、さらに高いレベルで練習することができた。2年生の頃から同学年の中でリーダー役だった田中は、他校の選手から学んだことを早稲田に持ち帰り、どうしたらもっと早稲田全体が強くなれるかを考えるようになった。

 迎えた最終学年。新体制は、主務・赤岩滉太(スポ=埼玉・秩父)と共に「日本一愛される柔道部になろう」という目標を立てて発足した。「愛されないと人も集まってこないし、成長しても認めてもらえない」。強さだけではなく、人として当たり前のことを当たり前にできるチームにしたいと思っていた。時には自分が嫌われ役になって叱咤をする時もあったが、チームのことを思ってのことだった。春先に迎えた、東京学生優勝大会(東京学生)と全日本学生優勝大会(全日本学生)。東京学生ベスト4、全日本学生ベスト8という目標を掲げて全員が「絶対に倒してやるんだ」という気持ちを持って日々の練習に励んでいた。残念ながら結果はついてこなかったが、チーム全体の雰囲気はとても良くなっていった。

 そんな中、最後の目標であった早慶戦の直前に田中はケガをしてしまう。「骨折と聞いた瞬間、終わったなと思った」と語る。しかし、早慶戦当日のオーダーの中に大将・田中の名前があった。自分が出ないような作戦でオーダーを組み、ケガをしながらもチームを信じて最後まで大将であり続ける田中の姿があった。試合は一進一退で両者一歩も譲らない展開。田中まで回ってくるかと思われたが、副将を務めた坂田豊志(スポ=富山・小杉)が相手の大将を一本勝ちで下し優勝を果たす。「正直ホッとした」とここまでつないでくれた仲間に感謝の気持ちでいっぱいだった。一人一人に自分の役割があって、早稲田として戦うんだという気持ちを持って挑んだ早慶戦。4年生最後の早慶戦は、「一人がみんなのために、みんなが一人のために」戦い、心から喜べる勝利であった。 


4年生の現役最後の試合後、笑顔の集合写真

 「これからも早稲田を応援したいと思うくらい早稲田を好きになりました」。早慶戦の後にこう語った。主将としてケガをしたり、結果がついてこなかったり、と苦しんだ一年間。しかし、悔しい思いがあったからこそ、練習での雰囲気が徐々に変わっていった。後輩たちに東京学生、全日本学生の目標を託して、田中は早稲田を引退する。またこの一年間早稲田を背負ってきた田中は果たして目標としてきた日本一愛される柔道部を作ることができたのだろうか。その答えは、笑顔の集合写真が教えてくれる。

(記事 瀧上恵利、写真 赤根歩 )