「すっごく前のことで……あまり思い出せないですね」 2016年シーズンについて、いくつか質問を向けると、彼女は小さくうなったきり、しばらく言葉を探していた。試行錯誤の2018年を経て新たなスタートを切った土居美咲…

「すっごく前のことで……あまり思い出せないですね」

 2016年シーズンについて、いくつか質問を向けると、彼女は小さくうなったきり、しばらく言葉を探していた。



試行錯誤の2018年を経て新たなスタートを切った土居美咲

 この年、土居美咲はウインブルドンでベスト16入りすると、8月のリオオリンピック出場権も勝ち取った。10月には世界ランキングも30位に到達し、日本のみならず、アジアの最高位選手にもなる。

 だが、それから2年も経たぬ2018年6月――。土居の世界での地位を示す数字は、「328」まで下降していた。

 大きなケガや、病があったわけではない。極度のモチベーションの低下や、競技生活からの休養を取ったわけでもない。誰にでもわかりやすい明確な理由は、彼女自身にも見つけられなかった。

 だからこそ、立ち込めた悩みの霧は濃く、それより以前の思い出を霞ませる。それでも、彼女は記憶の針を巻き戻し、自身が必死に歩んできた順路を、丹念に思い出そうとしていた。

 土居のテニスの持ち味は、大柄な欧州勢相手にも堂々と渡り合える、攻撃力にこそあった。

 159cmの体格は世界においては小柄だが、その身体を目いっぱい使い、相手の懐(ふところ)に切り込むかのように左腕を振るいウイナーを奪う。安定感にはやや欠けるが、誰が相手でも破りうる爆発力を秘めていた。

 その彼女が30位に達したころから、「負けたくない気持ちが働いていた」と述懐する。

「私のテニスは、向かっていくテニス。それが、ランキングが上がって挑戦を受ける立場になり、やりづらかったのは覚えています」

 立場の変化は心の様相を変え、プレーにも影を落とし始める。「ランキングを落としたくない」という焦りからか、2017年の初夏に腹筋を痛めた際は、ぶっつけ本番で試合に出て完治を遅らせもした。

 それでも当時の土居は、前向きな言葉を常に口にし、心身の疲労を見せることはなかった。だが、自分でも気づかぬうちに、心の糸は張り詰めていたのだろう。9月のジャパンウイメンズオープン初戦で破れ、ランキングも100位から落ちた時、その糸がプツリと切れた。

「ちょっと休ませてくださいとなって……3週間くらいはラケットを一切、握りませんでした」

 約2カ月ツアーから離れた後、気持ちも新たにふたたび転戦を始めるも、どうにも心技体が噛み合わない。負けが続くと結果を求めて心は逸り、一層、身体の動きを狂わせる。

「なんか……グッチャグチャで負ける。自分でも、何がしたかったんだろうという感じで、そもそもテニスになっていない。自分でも理解できないプレーが続いていました」

 試合をするのが怖い――。2018年の序盤には、コートに向かうことに恐怖を覚えるまでになったという。

「このころは、毎日泣いていました……」

 言いよどみながらも、彼女はポツリと告白した。

 その「どん底」を抜けた契機は?

 そんな安易な問いに対し、彼女は安直な答えを用意はしない。「ま、いろいろありましたけど」の言葉に、自問自答と試行錯誤の苦悩を込めるのみである。

 それでも、「引退を考えたことは?」と問うと、「うーん」と小さくうなった後に、「ありましたよ。4月ごろには考えていたし、両親にも、そう伝えました」と言った。

 その告白を聞いた母親は、娘の身を案じ、単身チェコにいる土居のもとへと駆けつける。だが、そこで母親が目にしたのは、思いのほか楽しそうに練習をする娘の姿だった。

 実はその練習は土居にとって、いつ以来か思い出せぬほど、久々に心からテニスを楽しめた瞬間だったという。練習相手は、大会会場のテニスクラブに所属する14、15歳の少女だった。

 土居は、その選手の名前すら知らない。だが、彼女がどれだけ楽しそうにテニスをしていたかは、今もよく覚えている。そして少女と打ち合う自分が、勝敗も関係なく、純粋にテニスを楽しめていたことを。

「周りのことや勝ち負けも考えず、とりあえず、テニスをしてみてはどうか? 続けるなら、納得いくまでテニスをしてくれればいいよ」

 母親が帰国した後、それまで試合結果やランキングにも言及してきた父親は、ただ、そう伝えてきたという。

 気持ちの有り様の変化は、プレーをも変えていく。いい時のテニスが、突如よみがえったわけではない。ただ、プレーに納得いかずともガムシャラにボールを追い、泥臭く勝利を求めた。出場する大会のレベルを落とし、そこで優勝したことも、復調へのひとつの足がかりになる。

「大会のレベルを下げたことで、結果的に自分の時間でボールを打てるようになり、そこから大会のレベルを上げて……。少しずつ、ステップを踏んで上がった感じでした」

 8月には、ツアー下部大会に相当する「ITF$10万大会」を予選から勝ち上がって優勝し、9月にはツアーでもトップ50選手から勝利をもぎ取った。

「上がったといっても、まだいい時の7割くらいですが……」というのが自己評価だが、「こうやって、振り返ることができるまでにはなりました」と笑みを浮かべる。一時は300位台に落ちたところから、128位まで戻るV字回復の上昇気流に乗り、土居は2018年シーズンを戦い終えた。

 多くの浮き沈みを経験し、プロ転向から早くも10年が経った今、彼女は、この先に何が待ち受けるのか見当もつかないのだと笑った。

「若いころは、経験を積めばいろいろなことに対処できるようになると思っていたのに、実際には経験が邪魔になり、怖さが増した。だから今、自分がどこにいるのか……この先どうなるのかわからないですよ」

 ただ、その「怖さ」をも乗り越えたからこそ、今の彼女は、不確かな未来を恐れない。

「今は、この自分がどうなるのかが楽しみです。どれだけ通用するのか、どれだけやっていけるのか。どんな感じになるのかなーと」

 新たな自分と出会う新シーズンは、もう始まりを迎えている。